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ラヌルフ・ド・ガーノン (第4代チェスター伯)

12世紀のイングランド貴族 / チェスター伯 / イングランド内戦期に活躍 From Wikipedia, the free encyclopedia

ラヌルフ4世[1][2]・ド・ガーノン[3]Ranulf IV de GernonRanulph de Gernon、1099年頃 - 1153年12月16日)とは、12世紀の有力なアングロノルマン人貴族英語版である。チェスター伯アヴランシュ副伯フランス語版(在位:1129年 - 1153年)、およびベサンフランス語版副伯を務めた。イングランド王スティーブンマティルダ皇后との間で勃発したイングランド王位を巡る内戦における主要な当事者の一人でもあった。彼は自身の利益を最大限に図るべく、陣営を頻繁に変更することで、この紛争において極めて活動的な役割を演じた。

出生 1099年頃
死亡 1153年12月16日
チェスター
概要 ラヌルフ・ド・ガーノン, 先代 ...
ラヌルフ・ド・ガーノン
第4代チェスター伯
アヴランシュ副伯フランス語版
ベサン子爵フランス語版
ラヌルフが攻略したリンカーン城の近影

チェスター伯
アヴランシュ副伯フランス語版
在位期間
1129年 - 1153年
先代 ラヌルフ・ル・メシン
次代 ヒュー・ド・ケヴェリオク

出生 1099年頃
死亡 1153年12月16日
チェスター
埋葬 チェスター修道院英語版
父親 ラヌルフ・ル・メシン
母親 ルーシー・オブ・ボルングブルック英語版
配偶者 マウド・オブ・グロスター英語版
子女
ヒュー・ド・ケヴェリオク
リチャード
ベアトリス
信仰 カトリック教会
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生涯

若年期

ラヌルフは、第3代チェスター伯・ベサン副伯・カンバーランド領主であったラヌルフ・ル・メシン(1129年没)と、ケンダル領主イヴ・ド・タイユボワおよびルーマールフランス語版領主ロジャー・フィッツジェラルドの未亡人であったルーシー・オブ・ボルングブルック英語版[4](1138年頃没[5]。)の間に生まれた。ルーシーは十中八九、アングロ・サクソン家系の極めて高貴な血を引く女性であり、リンカーンシャーに多大な所領と城を相続していた。

したがって、リンカーン伯ウィリアム・ド・ルーマール英語版は異父兄にあたり、また姉妹のアリスはリチャード・ド・クレア英語版の妻であった。父の死に際して彼は既に成人しており、ノルマンディーおよびイングランドの所領を継承して、第4代チェスター伯となった[5]。従兄の第2代チェスター伯リチャード(1120年没)の跡を継ぐため、父ラヌルフはカーライルの領主権および他の土地を返還し、王に1000ポンドの罰金を支払う必要があった[5]。1130年のパイプ・ロール(財務記録)は、ラヌルフが依然として王室に対してこの負債を負っていたことを示している[5]。母の死後、彼は彼女が寡婦産として保持していた土地、すなわちリンカーンシャーにおけるボリングブルック城英語版の約3分の1を相続した[5]。ノルマンディーにも重要な所領を有していたが、彼の関心は完全にイングランド内の権益に向けられていた[5]

彼は王の開催する会議に定期的に出席し、1131年にはイングランド王ヘンリー1世の娘であり後継者である皇后マティルダに王位継承を誓約した[5]。財務文書によれば、彼は地租英語版を免除されていたが、父ほど王に近い存在であったという証拠はない[5]。1135年以前[5]、彼はヘンリー1世の庶子であるグロスター伯ロバートの娘マウドと結婚した。この婚姻は、娘の王位継承を確実にするための陣営にラヌルフを繋ぎ止めておこうとする王の意図を示すものであった[5]

しかしながら、1135年に王が没すると、スティーブン・ド・ブロワが従姉妹の王位を奪い、反発を受けることなく戴冠した。ラヌルフと義父ロバートは新王を受け入れた。が、1138年、義父ロバートはスティーブンへの忠誠誓約を公式に破棄し、1139年9月、皇后マティルダは武力による王位獲得を目論みイングランドに上陸した。この時点において、ラヌルフは依然として王に忠実であった。

北部領土の領有権主張(1136年-1139年)

1136年1月、スティーブン王の治世初期において、スコットランド王デイヴィッド1世が国境を越え、ダラム英語版に到達した。彼はカーライル英語版ワーク英語版アニックノーハム英語版、およびニューカッスル・アポン・タインを占領した。

同年2月5日、スティーブン王はフランドル人傭兵部隊を率いてダラムに到着し、スコットランド王を交渉の場に引き出した[6]。両者はダラムにおいて条約英語版を締結し、スティーブン王はワーク、アニック、ノーハム、ニューカッスルを回収する一方、デイヴィッド1世はカーライルとドンカスターを保持することとなった[6]

これらの領土は、父ラヌルフがチェスター伯の称号と所領を得るためにヘンリー1世に返還した経緯があり、ラヌルフ伯にとって極めて重要な意味を持つものであった。彼は一貫してこれらの奪還を渇望し、スティーブン王からの返還を期待していた[7]。1136年、彼が宮廷を去ったのは、おそらくスコットランド側への譲歩に対する抗議の意味が含まれていた[5]

1139年、スティーブン王は再びデイヴィッド1世と交渉を行った。第2次ダラム条約英語版において、スティーブン王はスコットランド王に対してさらに寛大な条件を提示した。王はデイヴィッド1世の息子ヘンリーに対し、ノーサンブリア伯領英語版とドンカスターの町、さらにハンティンドン伯の称号とオナーを授与した。スコットランド王は引き続きカンバーランド英語版とカーライル市を保持した[8]

歴史学者のグレイム・ホワイトは、ラヌルフ伯にとってのカーライルとカンバーランドの重要性を過大評価すべきではないと指摘している[5]。ホワイトの分析によれば、これらの領土はチェスターから極めて遠方にあり、またラヌルフ伯自身、スティーブン王の治世初期における対スコットランドの3つの主要な軍事行動に参加した形跡がないためである[5]。ホワイトは、伯爵がむしろリンカーンシャーやミッドランズ英語版北部といった、自身の既有領土に近い領地にさらなる関心を寄せていたと考えている[5]

1140年、スコットランド王子ヘンリーがスティーブン王の宮廷に出席した際、ラヌルフ伯は王子がスコットランドへ帰還する道中を狙って捕縛する計画を立てた[5]。しかし、王はこの計画を察知して王子に護衛をつけ、臣下による独断の策を阻止した[5]

リンカーンの戦い(1141年)

1140年後半、スコットランド王子捕縛の試みが失敗に終わった直後、ラヌルフ伯はリンカーン城を占拠することで、再びスティーブン王への公然たる挑戦を選択した[5]。この際、彼は異父兄ウィリアム・ド・ルーマール英語版の助けを借りて計略を用いた。彼は3名の部下を伴って城に現れ、守備隊長の妻を礼儀訪問していた自身の妻およびルーマールの妻を迎えに来たと称した[5]。武器を持たずに入城を許可されるや、彼らはその場にあった武器を奪い取り、守備隊を追放した[5]。同時に、ルーマール率いる部隊が介入した。

当初、スティーブン王は両名と協定を結び、彼らが約束を履行するかどうか静観することに決めた[5]。王は彼らに関係する追加の土地を授与したが[5]、ウィリアム・ド・ルーマールがリンカーン伯に叙されたのは、おそらくこの時である[9]

その後まもなく、スティーブン王はリンカーンの住民から「両名が警戒を怠っている」との急報を受け、町を奪還して城を包囲した。ラヌルフ伯は脱出に成功し、皇后マティルダの大義に合流して、義父グロスター伯ロバートに援軍を求めた。

1141年2月2日、リンカーンの戦いにおいてスティーブン王は敗北し、捕らえられた。戦闘の後、ラヌルフ伯とその部下たちは町を略奪し、多数の住民を虐殺した[5]

戦後、彼は戦闘で捕らえた若きギルバート・ド・ガント英語版に対し、自身の姪であるロヘイズ・ド・クレアとの強制的な結婚を強いた[10]。さらにその後、彼はリッチモンド領主アラン黒伯を捕らえた。ラヌルフ伯は、ウィリアム・ドービニーフランス語版の所領であるベルヴォアを巡って彼と争っていたのである。彼はアラン黒伯を脅迫し、ガルクリント(Galclint)の要塞を返還させ、自身への臣従を誓わせた[11]

ラヌルフ伯が皇后側(アンジュー派)に加わったのは、一方の陣営を思想的に支援するためではなく、あくまで自身と一族の利益のために戦うためであった[5]。事実、新陣営は即座に彼の忠誠心が両義的であり、彼が真に追求しているのは自己の利益のみであることを見抜いた[5]。北部における彼の領土的野心の実現において、皇后との同盟は前進をもたらさなかった。なぜなら、デイヴィッド1世は皇后の親密な同盟者であったからである[7]

1141年9月14日に皇后派が大敗を喫した後、彼はまずスティーブン王妃マティルドの軍に加わったが、王党派は彼を極めて疑わしく思っていたため、結局皇后側に戻ることにした[5]マームズベリのウィリアムによれば、彼は到着が遅すぎ、その参陣は何の役にも立たなかったという[5]。異母姉である皇后の逃走を援護する中で、ロバート伯が捕らえられた。同年末、ロバートは王との捕虜交換で解放された。

1142年、皇后の夫であるジョフロワ・プランタジネットのアンジュー派軍が、ノルマンディー公国を征服する過程で、ラヌルフ伯のノルマンディーにおける所領とブリケサールフランス語版城を奪取した[5]。1144年、スティーブン王は再びリンカーン城を包囲した[5]。また、ラヌルフ伯は地元の諸侯たちとの様々な紛争に関与し続けていた。1143年、彼はギルバート・ド・ガントの土地の支配を巡り、オマール伯英語版およびヨーク伯であったウィリアム・ル・グロスと戦った。また、アダム2世・ド・ブルースの未成年期における所領の管理権を巡り、ヨーク伯およびリッチモンド領主アラン黒伯とも紛争状態にあった[12]

ノーサンプトンにおける逮捕(1146年)

武力行使によってチェシャーからリンカーンシャーに至る王国の一帯に自らの権威を確立してきたラヌルフ伯であったが、1145年末または1146年初頭、スタンフォード英語版での会談を経て王と和解した[5]。当時、王党派はイングランドにおいて一定の優位を取り戻しつつあった[5]

G・ホワイトによれば、この機会におそらく発行されたとされる憲章は、伯爵の驚くべき野心を浮き彫りにしている[5]。王は彼に対し、ミッドランズ北部のすべての郡における王領地、ならびにダービーニューカッスル・アンダー・ライムの町、さらにベルヴォア(ウィリアム・ドービニーの所領)、ティックヒル英語版(ヨークシャー、ロジャー・ド・ブリーの所領)、およびランカスター英語版(当時はスコットランド支配下)の各オナーを与えた[5]。彼はまた、リンカーンの城代職も獲得した[5]。これらの領土の大部分は、すでに彼の支配下にあったと思われる[5]

彼は、ベッドフォード英語版奪還およびブライアン・フィッツカウント英語版が守るウォリングフォード城英語版包囲のために[5]、多数の騎士を動員してスティーブン王への誠意を示した[13]。しかしながら、王の側近たちは彼に対して不信感と疑念を抱き続けていた[5][7]。主要な王党派男爵たちは、彼が奪取した王室の土地や城を未だ返還していないことに危機感を抱いていた[5]。彼らは、ラヌルフに誠実さの証として人質を出させるべきだと考えたのである[5]

1146年8月29日、ラヌルフがノーサンプトンで王と会談し、自身の所領へ侵入を繰り返すウェールズ人への対策として加勢を求めた際、事態は動いた[5]。顧問官たちは王に対し、ウェールズは待ち伏せに最適な場所であると進言した[5]。そこで王はラヌルフに対し、奪った王室財産を返還し、忠誠の証として人質を供出しない限り、援助は行わないと告げた。ラヌルフがこれらの条件を拒否したため、王党派はこの介入要請を「罠」であると断定し、彼は即座に逮捕・投獄された[5]

伯爵が解放されるためには、リンカーン城を含む[7]王室の財産と城をすべて返還し、将来にわたって王に反対しないことを誓約しなければならなかった[5]

自由の身となったラヌルフであったが、王の保護下にあるはずの宮廷[7]で逮捕されたことに憤慨した。これは当時の封建的慣習において本来考えられない不祥事であった[14]。加えて、スティーブンは前年にスタンフォードで行った和解の誓約を破ったことになり、政治的に大きな失策を演じたといえる[7]

ラヌルフは直ちに反旗を翻し、返還を余儀なくされた領土を武力で奪還しようとした[5]。その後、王党派軍との間で数多くの衝突が発生した[5]。1147年のコヴェントリー、1149年のリンカーンにおいて、彼は王本人とも戦ったが、成功を収めることはできなかった[5]

スコットランド王デイヴィッド1世との合意

ラヌルフは再びアンジュー派へと接近した。1147年のグロスター伯ロバートの死、および皇后マティルダのノルマンディーへの去還により、王国を取り巻く政治情勢は劇的に変化した[5]。伯爵の存在感は不可欠なものとなり、以前よりも深く紛争に関与するようになった[5]

1149年5月、皇后の息子である若きアンリ・プランタジネット(後のヘンリー2世)がカーライルでスコットランド王と面会し、騎士に叙された際、ラヌルフも同席していた[5]。1150年の憲章において、アンリがラヌルフを自身の臣下として扱っていることから、この時期に彼がアンリに忠誠を誓った可能性は極めて高い[5]。同時期、彼はデイヴィッド1世との領土争いに終止符を打った[5]。彼はスコットランド王に臣従を誓い、ランカスター領(リブル川とマージー川の間、およびリブル川以北の地域)を受け取った[5]。その代わりとして、彼はカーライルへの請求権を放棄した[5]。両者はこの合意を強固にするため、ラヌルフの長男ヒューと、スコットランド王子ヘンリーの娘との婚姻を取り決めた[5]

この会談の締めくくりとして、ヨークへの共同攻撃が計画されたが、その間にスティーブンが大軍を率いて北部に到達した[5]。攻勢は放棄され、スコットランド王は伯爵が時間通りに介入しなかったことを非難した[5]。結局、予定されていた婚姻も実現しなかった[5]

しかしながら、この妥協により、イングランドにおけるアンジュー派は大功労者ラヌルフの揺るぎない忠誠を確保することとなった。これ以降、彼はアンリ・プランタジネットの大義に固執し、死ぬまで忠実であり続けた[5]

レスター伯との条約

アンジュー派への強い加担はあったものの、それが彼の「自己利益の最優先」という姿勢を妨げることはなかった[5]。彼は王国の東部に拠点を置く他の男爵たちと同様に、スティーブン王の重要支持者であった第2代レスター伯ロバート・ド・ボーモント英語版との間で私的な条約を締結した[7]。1149年から1153年の間に結ばれたこの協定は、衝突が起きた際の両者の適切な振る舞いを細かく規定しており、それぞれの主君に対する忠誠を棚上げにする内容であった[5]。彼らは、たとえ状況により交戦を余儀なくされても、動員する騎士は20名に限定し、互いの領地や城への損害を最小限に抑えることを約束し合ったのである[5]

1153年、アンリ・プランタジネットが決戦のためにイングランドへ帰還した際、これら2人の男爵はいずれもアンリの陣営に属しており、条約は最早不要となった[5]。アンリにとってその武力が不可欠であったラヌルフは、再び主君から途方もない譲歩を引き出すことに成功した[5]。アンジュー派の司令部があったデヴァイジズ英語版で作成された憲章により、彼はノルマンディーにおける所領、城、称号を完全に回復した[5]。イングランドにおいても、ミッドランズ北部の多数の領地が与えられたが、その多くは1146年にスティーブンから得たものと同じであった[5]。さらに、この憲章には、ラヌルフが奪取することを推奨された数名の王党派男爵の領地も含まれており、その中にはノッティンガムのウィリアム・ペヴェレル2世の名も含まれていた[5]

伯爵の死(1153年)

ゲスタ・ステファニ英語版(スティーブン王伝記)』によれば、1153年、ラヌルフはウィリアム・ペヴェレル2世による毒殺の企てを辛うじて生き延びた[5]。ペヴェレルの邸宅に招かれた際、彼は提供されたワインに毒を盛られたのである[5]。飲む量が少なかったため、その場では一時的に回復した[5]。しかし、この殺人未遂事件から長くは持たず、1153年12月17日(または16日)、ダービーシャーのグレズリーにて没した[5]。1155年、王位に就いたヘンリー2世は、この罪を理由にペヴェレルの領地を没収した[5]。遺体はおそらく父の眠るチェスター修道院に埋葬された[5]

死後、まだ6歳ほどであった息子ヒューが跡を継いだ。ヒューが父の遺領を継承したのは、ウォリングフォード条約の条項に従い、ヘンリー1世の死時にラヌルフが保有していた土地に限定して、1162年のことであった[5]

宗教的業績

彼は1131年にフリントシャーサヴィニー修道会英語版ベイジングワーク修道院英語版を設立した。また、ミンティング英語版にベネディクト派の修道院を、チェスターに女子修道院を、さらにトレンサム英語版にアウグスチノ派の修道院を設立した[5]。死の間際になされた最後のトレンサム修道院の設立は、元々は叔父の初代チェスター伯ヒュー・ダヴランシュが設立した修道院の復興であった可能性が高い[5]

評価

同時代の人々は、当然ながら彼を極めて厳しく批判した[5]。年代記作家たちは、彼を「才知に富み、狡猾で、無鉄砲だが、常に陰謀に加担しており信頼できない人物」として描写した[5]。紛争中における彼の唯一の野心は、あらゆる機会を捉えてミッドランズ北部における自らの領土的権力を維持・拡大することにあった[5]。1146年まで、彼が陣営を選択する基準は、常にそこから得られる利益の最大化であった[5]ジェフリー・ド・マンデヴィルのような他の大物貴族たちも同様の行動をとったが、ウォーレン・ホリスターの見解によれば、ラヌルフは事実上、あらゆる権威から独立した存在であることを追求していた[14]。G・ホワイトは、「彼は自らの野心の追求において類い稀なほど凶暴であったが、その結果、多くの人々に憎まれ、誰からも信頼されることがなかった」と評している[5]

家族と子女

1135年以前に、グロスター伯ロバートとマウド・フィッツハモンの娘であるマウド・フィッツロバート・オブ・グロスター(1120年頃 - 1189年7月29日[5]。)と結婚した。知られている子女は以下の通り。

ヒュー・ド・ケヴェリオク(1147年頃 - 1181年6月30日):第5代チェスター伯、父の相続人。1170年頃、エヴルー伯シモン3世・ド・モンフォールの娘ベルトレ・ド・モンフォール(1150年頃 - 1189年7月12日)と結婚した。

リチャード(1170年から1175年の間に没):ギヨーム・ド・ジュミエージュ英語版の『ノルマン人の事績(Gesta Normannorum ducum)』に記載がある。

ベアトリス:ラウル・ド・マルパスと結婚。

関連項目

脚注

参考文献

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