ラビアウ条約

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ラビアウ条約(ラビアウじょうやく、ドイツ語: Vertrag von Labiau, スウェーデン語: Fördraget i Labiau)は、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムスウェーデンカール10世の間で、1656年11月10日(ユリウス暦[1]/11月20日グレゴリオ暦)にラビアウ(現ロシア領ポレッスク)で締結された条約。北方戦争の最中にあるカール10世は、プロイセン公国エルムラントの君主でカール10世の封臣であるフリードリヒ・ヴィルヘルムを封臣から独立国の君主に昇格させ、「フリードリヒ・ヴィルヘルムの支持を買おうとした」のだった[2]

1654年に北方戦争が勃発すると、スウェーデンカール10世ブランデンブルク選帝侯プロイセン公フリードリヒ・ヴィルヘルムに同盟を提案した[3]。同盟の代償がピラウメーメル2港の割譲と大きかったため、フリードリヒ・ヴィルヘルムは同盟を拒否、翌1655年にネーデルラント連邦共和国と防衛同盟を締結した[3]

1576年に作成され、1645年に再版された地図。黄色の部分がプロイセン公国である。また、ラビアウがLabiawと表記されている。

スウェーデンが戦争を有利に進め、プロイセンまで侵攻すると[4]、フリードリヒ・ヴィルヘルムは1656年1月7日(ユリウス暦)/1月17日(グレゴリオ暦)[5]ケーニヒスベルク条約でプロイセンをポーランドの封土[6]からスウェーデンの封土に鞍替えすることを余儀なくされた[6]。さらに、ピラウとメーメルの割譲、資金と軍事援助、スウェーデンに対する港口通行税の半減を約束させられた[4]

ブランデンブルク選定侯フリードリヒ・ヴィルヘルム
スウェーデン国王 カール10世

スウェーデンのポーランド=リトアニア共和国進軍が膠着状態に陥ると、カール10世とフリードリヒ・ヴィルヘルムは1656年6月15日(ユリウス暦)/6月25日(グレゴリオ暦)にマリエンブルク条約を締結した[7]。フリードリヒ・ヴィルヘルムはポーランドのスウェーデン占領地を受け取る代償として、新しく徴集した軍を用いて7月28日から30日のワルシャワの戦いでスウェーデンを支援、「プロイセンの軍事史」の幕開けとなった[8]

スウェーデンはワルシャワの戦いには勝利したものの、ロシア・ツァーリ国神聖ローマ帝国ネーデルラント連邦共和国が続々と参戦したことで不利に陥り、ブランデンブルクのさらなる支援に依存せざるを得なかった[7]。これにより、フリードリヒ・ヴィルヘルムは同盟の代償を吊り上げ、ラビアウ条約でカール10世にそれを認めさせた[8]

内容

カール10世はフリードリヒ・ヴィルヘルムの治めるプロイセン公国エルムラントが独立国に昇格することを承認した[7][6]。これにより、フリードリヒ・ヴィルヘルムはプロイセン領の公から「プリンセプス・スンムス・エト・スウェレヌス」(princeps summus & Suverenus)に昇格した[9]。また、条約の第3条ではフリードリヒ・ヴィルヘルムの後継者にも「プリンセプス・スンムス・エト・アブソルティ・スウェレヌス」(princeps summus & absoluti Suverenus)として同じ権利を承認した[10]

スウェーデンはプロイセンの港における関税の徴収権を放棄[7]、フリードリヒ・ヴィルヘルムはその代償として12万リクスダラー英語版を支払う[11]。また、カルヴァン派であるフリードリヒ・ヴィルヘルムはルター派信教の自由を許可、マリエンブルク条約の第4条とケーニヒスベルク条約の第17条を確認した形となった[5]

秘密条項ではフリードリヒ・ヴィルヘルムがスウェーデンによる、プロイセンとスウェーデン領リヴォニア英語版の間のバルト海沿岸部、すなわちクールラント・ゼムガレン公国リトアニア大公国ジェマイティヤ公国への請求を支持することに同意した[12]

結果

脚注

参考文献

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