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ラファエル・サレム

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サレムの墓石

ラファエル・サレム(希: Ραφαέλ Σαλέμ、仏: Raphaël Salem、1898年11月7日 - 1963年6月20日(1963-06-20) )は、ギリシャ出身の数学者。サレム数、サレム-スペンサー集合(英語版)はサレムの名を冠する。

サレムの未亡人により、サレムを称えてサレム賞が設置されている。

サロニキでエマヌエル・サレム(ブルガリア語版)とフォルトゥネ・サレムの間に生まれた。父エマヌエルは国際問題に携わった法律家であった。ラファエルはユダヤ系の家庭で生まれ育った。15歳で家族とともにフランスに移住し2年間をリセ・コンドルセで過ごした。父と同じ道に進むためパリ大学法学部に進んだ。しかしサレムの関心は数学と工学に向いた。法学の勉強と並行して数学者アダマールの講義を受けた。1919年に法学の学位を取得し、法学の博士課程に進み始めたが、科学に転向することを決心した[1]。

ソルボンヌ大学で licence ès sciences(英語版) を取得した。その後、工学の学位のために勉強を始め、1921年にエコール・サントラル・パリで Ingénieur des Arts et Manufactures の学位を取得した。法学・科学・工学を修めて1921年からパリ・オランダ銀行(英語版、フランス語版)(現BNPパリバ)で働き始めた。余暇には生涯を通して関心を向け続けたフーリエ級数を研究した[1]。

1939年春、サレムは若きポーランドの数学者ユゼフ・マルチンキェヴィチ(英語版)と協力して、銀行で働きつつも数学の論文を執筆した。フランスの政情の悪化と1939年9月の第二次世界大戦勃発で、サレムは軍務に招集され、フランス陸軍の参謀本部第二局(英語版、フランス語版)に所属した。フランス-イギリス調整委員会委員長ジャン・モネの補佐のためイングランドに派遣された。1940年6月に復員した。秋ごろにイングランドを発ってカナダ、アメリカ合衆国に移り、マサチューセッツ州ケンブリッジに居住した。1941年、マサチューセッツ工科大学で数学の講師に任命された。短期間のうちに昇進してアシスタント、そしてアソシエイト・プロフェッサーとなった。1958年、ソルボンヌ大学の教授に指名され、1963年の死没までパリで過ごした。1967年、エルマン(英語版、フランス語版)社から Oeuvres mathématiques (アントニ・ジグムント(英語版)、ジャン=ピエール・カーヌ(英語版、フランス語版)編)が出版された[2]。サレムの没後、妻のアドリアーナ・サレム(wikidata)(フェデリコ・ジェンティリ・ディ・ジュゼッペ(英語版)の子)はフーリエ級数に関する際立った功績を残した若い研究者に与えられる国際賞であるサレム賞を設立した。

私生活

1923年、サレムはアドリアーナと結婚し2人の息子、1人の娘を儲けた。息子の一人にリオネル・サレム(英語版、フランス語版)がいる。1940年、父エマヌエルが没し、ラファエルの母、女きょうだいの家族もナチスの強制収容所に連行されて没した。ラファエルの長男は自由フランス軍に所属し、1944年に連合国の南フランス上陸作戦に参加した。この時期まで生存したサレムの家族はフランスを脱出しカナダへ逃亡した[1]。

数学に加えて、サレムは音楽を好んでおりヴァイオリンや四重奏に興じていた[3]。また芸術や文学、スポーツ、とりわけスキーや乗馬にも興味を示した[1]。

書籍

出典

参考文献

関連項目

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