ランスの戦い
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背景
経過
影響
1648年はランスの戦いに関連する重要な事件が2件あったが、その結末は違った[3]。第一に、この勝利はフランス王の高等法院への態度を硬化させた。そのため両者はパリで対立し、フロンドの乱が長期化する結果となった[3]。次に、フランスの勝利は三十年戦争を終わらせた。テュレンヌ子爵、ウランゲル、ケーニヒスマルクの軍勢はウィーンとプラハを脅かし、神聖ローマ皇帝フェルディナント3世を怯えさせた。彼の同盟者であったバイエルン選帝侯マクシミリアン1世は和平を熱望しており、スペイン王フェリペ4世は本軍を失った。事ここに至り、フェルディナント3世には講和の選択肢しか残されていなかった。1641年以降、神聖ローマ帝国はミュンスターでフランス、オスナブリュックでスウェーデンと交渉していたが、ここにきて皇帝はようやく和平を裁可し、1648年10月24日にヴェストファーレン条約が成立した。一方、フランスとスペインの戦争は1659年のピレネー条約締結まで長引いた[4]。
しかし結果として、ランスの戦いにおけるフランスの勝利はその後のさまざまな事件で無駄になった。ルイ14世は国を統治するには若すぎたことに加え、摂政アンヌ・ドートリッシュが自らの地位を固めることに失敗し、戦後すぐにフランスで内戦が勃発した。これはスペインに回復する時間を与えることになった[5]。また、戦勝を祝ってノートルダム大聖堂でテ・デウムが歌われたが暴動が発生し、1649年1月にはルイ14世はパリからの逃亡を余儀なくされた[6]。
