フロンド (fronde) は本来、石弓(カタパルト、投石器)を表し、絶対王政の確立につながった17世紀の貴族の反乱「フロンドの乱」以降、「批判、反抗、反逆、反乱、暴動」の意味で使われるようになった。したがって、「ラ・フロンド」は女性の反乱の意味である[1]。
マルグリット・デュラン (1910年6月28日)
『ラ・フロンド』紙誕生のきっかけは、1896年、『フィガロ』紙の記者であったマルグリット・デュランが、レオン・リシェが1882年11月に設立し、ヴィクトル・ユーゴーが初代名誉会長を務めたフランス女性の権利連盟(英語版)がパリで開催した国際女性会議(マリア・ポニヨン(フランス語版)会長)を取材したことである。『フィガロ』紙は女性解放運動について多少の嘲笑を込めたユーモラスな記事を掲載したいと思っていたが[2]、実際にこの会議を取材したデュランは、嘲笑するどころか、逆に、女性の権利のために闘う人々の「勝利に貢献することを社会的義務と考え」、「女性自身が女性の利益を守るために」と新聞を作る決意をした[3]。
編集委員、コラムニスト、寄稿者はもちろん、校正や印刷もすべて女性のみで行った。宣伝ポスターを制作したのはクレマンティーヌ=エレーヌ・デュフォーである。デュランはこれについて、当時は「たとえ事務員としてでも男性が関与していると、実際には男性が記事を書いている」と疑われるような時代であったため、調査報道や植字など従来「男の仕事」とされていた分野も含めて女性に職業能力があることを実証したかったと説明している[3]。
『ラ・フロンド』紙はカトリック勢力に反対する反教権主義・共和派の立場から、女性労働問題を中心に女性の権利・地位向上に関する様々な問題を取り上げ、パリで女性問題に関する国際会議が開催されたときには事務局を務めた[3]。
クレマンティーヌ=エレーヌ・デュフォーによる『ラ・フロンド』(1897年) の表紙。
『ラ・フロンド』紙は「ペティコートの時代」と呼ばれ、最盛期には5万人の読者を得た[4]。
『ラ・フロンド』紙は、1932年に設立されたフェミニズム資料館「マルグリット・デュラン図書館(フランス語版)」(パリ市立図書館)が所蔵している。
各界を代表する女性たちが編集委員を務めた[5]。
編集委員以外の主な寄稿者: