リチャード・ド・ヴィアー (第11代オックスフォード伯)
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| リチャード・ド・ヴィアー Richard de Vere | |
|---|---|
| 第11代オックスフォード伯 | |
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| 在位 | 1406年 - 1417年 |
| 出生 |
1385年8月15日 |
| 死去 |
1417年2月15日(31歳没) |
| 埋葬 |
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| 配偶者 | アリス・ホランド |
| アリス・セルジョー | |
| 子女 |
ジョン ロバート リチャード |
| 家名 | ド・ヴィアー家 |
| 父親 | 第10代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィアー |
| 母親 | アリス・フィッツウォルター |

第11代オックスフォード伯リチャード・ド・ヴィアー(Richard de Vere, 11th Earl of Oxford)は、第10代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィアーの息子。サウサンプトン陰謀事件への関与を問われたケンブリッジ伯リチャードと第3代スクロープ男爵の裁判に参加し、1415年のアジャンクールの戦いでは指揮官の一人を務めた。
リチャードは、第10代オックスフォード伯オーブリー・ド・ヴィアーと、その妻アリス・フィッツウォルター(第3代フィッツウォルター男爵ジョン・フィッツウォルターと第2代パーシー男爵ヘンリー・ド・パーシーの娘エレノア・パーシーの間の娘)の長男として1385年8月15日に生まれた[1][2][3]。第10代オックスフォード伯は、リチャードが未成年であった1400年4月23日に亡くなった。リチャードの後見権は当初、母に与えられたが、1401年4月29日の母の死後、ヘンリー4世は自身の妻の母ヘレフォード伯夫人ジョーンに与えた[3]。リチャードは1406年12月21日、成年に達した証明を提出することなく領地を正式に受け取った[4]。
1412年8月、リチャードは初代クラレンス公トマス・オブ・ランカスターの指揮下でノルマンディーへ航海し、ブルゴーニュ派に対抗するアルマニャック派を支援した。ピューによると、この遠征でクラレンス公に同行した貴族たちは金銭的利益を期待していたが、特にオックスフォード伯は、前伯爵たちの存命中に没収や剥奪に苦しみ「イングランドの高級貴族の中で最も貧しい」存在となっていたためそれを望んでいた[5]。クラレンス公の遠征隊には、第3代ケンブリッジ伯リチャードも参加していた。そして3年後の1415年8月5日、リチャードはクラレンス公が裁判長を務めた裁判に貴族として参加した。この裁判では、ヘンリー5世のフランス侵攻前夜に起きたサウサンプトン陰謀事件への関与の罪で、ケンブリッジと第3代スクロープ男爵に死刑が宣告された[6]。数日後、リチャードは国王と共にフランスへ出航し、1415年10月25日のアジャンクールの戦いでは指揮官の一人となった[7]。
1416年5月、リチャードはガーター騎士とされ、同年、艦隊と共にアルフルールの救援に出航し、8月15日にセーヌ川河口で行われた海戦に参加した[7][3]。
リチャードは1417年2月15日、31歳で亡くなり、エセックスのアールズ・コルンに埋葬された。
結婚と子女
リチャードは1399年より前に、初代エクセター公ジョン・ホランドと、その妻エリザベス・オブ・ランカスター(ヘンリー4世の姉、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの娘)との間に生まれたアリス・ホランド(1406年頃没)と結婚したが、子どもは生まれなかった[3][7][8][9]。
2度目に1406年か1407年頃にアリス・セルジョー(1386年頃 - 1452年5月18日)と結婚した。アリスはセント・エルムのガイ・セント・オービンの未亡人で、コルキートのサー・リチャード・セルジョーとその2番目の妻フィリップ・ド・アランデル(1399年頃没)の娘である。フィリップは、第10代アランデル伯爵リチャード・フィッツァランの最初の妻イザベル・デスペンサーとの子サー・エドマンド・ド・アランデル(1344年に両親の結婚は無効とされ、庶子とされた[10])の娘で共同相続人でもあった[9][11][12]。アリス・セルゴーとの間には3男が生まれた。
- ジョン(1408年 - 1462年) - 第12代オックスフォード伯
- ロバート(1410年 - 1461年) - ジョーン・コートネイ(1465年8月3日以前没)と結婚した。ジョーン・コートネイは、デヴォンのハッコムのサー・ヒュー・コートネイ(1425年没)とその2番目の妻はハッコムの相続人フィリッパ・アーチデクネの娘であった。また、デヴォンのモーハンズ・オタリー、ペンブルックシャーのカルー城、バークシャーのムールスフォード出身のサー・ニコラス・カルー(1448年4月20日以前没)の未亡人であった。ジョーン・コートネイとの間には、1男1女が生まれた。
- ジョン(1488年3月15日以前没) - アリス・キルリントン(またはコルブルック)と結婚し、夫妻の間には第15代オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアーが生まれた[13][14]。
- ジョーン
- リチャード - ヨークシャー、ハートヒルのアソルのサー・ヘンリー・パーシーとエリザベス・バードルフの娘で共同相続人であり、コドナーの6代グレイ男爵ヘンリー・グレイ(1444年7月17日没)の未亡人であった、マーガレット・パーシー(1464年9月22日没)と結婚した[15]。
未亡人となったアリスは、ロンドン、エセックスのボビングワース、ハートフォードシャーのソートレズ(サンドリッジ)のサー・ニコラス・ソーリーと結婚し、サー・ニコラス・ソーリーは1431年から1432年までエセックスとハートフォードシャーの代官を務めた。また、ソーリーは1415年のアジャンクールの戦いでグロスター公ハンフリーの部隊に従軍した。ソーリーと妻アリスは、1421年にケントのバドルミア、1422年にバッキンガムシャーのアストン・サンドフォード、1432年にコーンウォールのセント・アームの各教会に寄進を行った。1421年10月、ソーリーは摂政、ボーフォート、大法官、財務官、国璽尚書、両裁判官、その他評議会の議員らからなる法廷に召喚され、国王の許可なくオックスフォード伯の未亡人と結婚したことを認めた。大法官は伯爵夫人の領地をすべて国王のもとに没収し、その返還に罰金を課した。そしてソーリーをロンドン塔に送り、1424年2月に伯爵夫人が1年分の領地代金を支払うまで、ソーリーはそこに留まった。アリスは1426年に教皇から全面的赦免の恩赦を得た。1426年11月、ソーリーと妻のアリスは王室の許可なく結婚したことで完全に恩赦を受けた。1436年、ソーリーとサー・ジョン・ロブサートは、ジェントリーのローレンス・ダウンに110マルクの負債を抱えていた。1440年、ソーリーと妻アリス、ジョン・パスシェリー、ジョン・マーニーは、オックスフォードシャーのチッピング・ノートンのヨーマン、ジョン・バレを債務問題で民事裁判所に提訴した。サー・ニコラス・ソーリーは1442年5月5日に亡くなった。未亡人となったアリスは1452年5月18日に亡くなり、エセックスのアールズ・コルンに埋葬された[16]。