ジョン・ド・ヴィアー (第15代オックスフォード伯)

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出生 1482年ごろ
イングランド王国の旗 イングランド王国エセックス、ヘディンガム城
死去 1540年3月21日
イングランド王国の旗 イングランド王国エセックス、ウェイクス・コルネ
配偶者 クリスチャン・フォデリンジー
ジョン・ド・ヴィアー
John de Vere
第15代オックスフォード伯
第15代オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアーの墓像に基づく絵(ナショナル・ポートレート・ギャラリー

出生 1482年ごろ
イングランド王国の旗 イングランド王国エセックス、ヘディンガム城
死去 1540年3月21日
イングランド王国の旗 イングランド王国エセックス、ウェイクス・コルネ
埋葬 1540年4月12日
イングランド王国の旗 イングランド王国エセックス、ヘディンガム城
配偶者 クリスチャン・フォデリンジー
  エリザベス・トラッセル
子女 エリザベス
ジョン
フランセス
オーブリー
ロバート
アン
ジェフリー
家名 ド・ヴィアー家
父親 ジョン・ド・ヴィアー
母親 アリス・キルリントン
役職 式部卿(1526年 - 1540年3月21日)
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第15代オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアー(John de Vere, 15th Earl of Oxford, 1482年ごろ - 1540年3月21日[1]は、イングランド貴族

ジョン・ド・ヴィアは、ジョン・ド・ヴィアとアリス・キルリントン(別名コルブルック)の息子として1482年頃に生まれた。第11代オックスフォード伯リチャード・ド・ヴィアーの曾孫にあたり[1][2]、又従兄弟である第14代オックスフォード伯ジョン・ド・ヴィアーの跡を継いだ[3]。ジョンには、デヴォンのパウダーハムのフィリップ・コートネイとエリザベス・ハンガーフォードの間に生まれたサー・ウォルター・コートネイ(1506年11月7日没)と母アリスが1491年より前に再婚して生まれた、ウィリアム・コートネイとウォルター・コートネイという2人の異父弟と、キャサリン・コートネイという異父妹がいた[4]

経歴

第15代オックスフォード伯ジョンの紋章:1) ド・ヴィアー家;2)キルリントン家;3)クレア家; 4) セルゴー家;5) バドルミア家;6) フォリオット家;7) ボレベック家

ジョンは1509年のヘンリー7世の葬儀において遺体の従者を務め[2]、1513年9月25日、拍車の戦いの後、トゥルネーヘンリー8世により騎士とされた[5]。1520年には金襴の陣でヘンリー8世に付き従い、1522年にはドーバー神聖ローマ皇帝カール5世と会見した[6]

1526年12月19日、ジョンは終身の式部卿に任命され、1527年10月21日にはガーター騎士とされた。1529年12月1日にはウルジー枢機卿に対する貴族院の請願書に署名し[7]、1531年3月22日までに枢密院議員に任命された[6]

1531年にヴェネツィアにおいて、ジョンは「勇敢で権威のある人物であり…常に200頭の馬を率いて騎馬行列をするのが彼の習慣である」と報告されている[7]

ジョンは1533年4月に行われたアン・ブーリンの戴冠式で戴冠したが、後に1536年5月15日に行われた女王の審問委員会に加わった[6]。1537年10月15日、ジョンは将来のエドワード6世の洗礼式に出席し、翌11月12日には王妃ジェーン・シーモアの葬儀に参列した[6]

1538年12月2日と3日、ジョンはエクセター侯爵とモンタギュー卿ヘンリー・ポールの反逆罪裁判で貴族院議員を務めた[6]

ジョンと息子のジョンは、ブラックヒースで行われたアン・オブ・クレーヴズの歓待に国王の随行員として同席した[6]

ジョンはオックスフォード伯としては最初のプロテスタントであったと伝えられている。ジョンは劇団を後援し、1534年から1536年にかけてジョン・ベールに劇作を依頼した[8]。ヘンリー8世の寵臣であり、大侍従長でもあったジョンは、1537年頃、リチャード・モリソンの反教皇運動のための反カトリックのプロパガンダ劇の執筆をベールに指示した[9]

ジョンは1540年3月21日、エセックスのコルネの荘園で亡くなり、4月12日にヘディンガム城に埋葬された[10]

結婚と子女

脚注

参考文献

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