ルスダン (デメトレ1世の娘)
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ルスダン(ジョージア語: რუსუდანი、ジョージア語ラテン翻字: Rusudani)は、12世紀ジョージア王国のバグラティオニ王家の王女であり、政治家、外交官。国王デメトレ1世の娘であり、兄にダヴィト5世とギオルギ3世がいる。後のジョージア女王タマルの父方の叔母にあたる。ルスダンはジョージア語で「女王」や「王妃」を意味する「デドパリ」(ジョージア語: დედოფალი)と呼ばれた[1]。セルジューク朝では「アブハズィヤ・ハトゥン」(ペルシア語: أبخازية خاتون)として知られていた[2]。
1143年、ルスダンはセルジューク朝のスルタンであるマスウードと結婚した。この際、持参金としてルスダンにギャンジャの支配権が与えられた。しかし、この婚姻は1152年にマスウードが死去するまでの数年間続いたのみであった。その後、ルスダンはマスウードの叔父であるスルタン・アフマド・サンジャルと結婚した。1157年にサンジャルが死去すると、続いてサンジャルの甥であるスルタン・スレイマンと結婚した。この結婚は1161年にスレイマンが死去するまで続き[2][3][4]、その後ルスダンはジョージアに帰国した。一部の歴史家は、1153年から1154年にかけてキーウ大公のイジャスラフ2世の妻であった可能性を指摘している[5]。ルスダンに子供はおらず[3]、帰国後は再婚しなかった[6]。
ルスダンはサムシヴェルデの領地を与えられ、そこに自身の宮廷を構えた。ルスダンの兄ギオルギ3世の娘であるタマルとその妹であるルスダンは、サムシヴェルデにあるルスダンの宮廷で教育を受けた[3]。また、ルスダンはタマルの2番目の夫となるアラニア王国の王子ダヴィト・ソスラニの養母でもあった[3]。
政治と外交
ルスダンは単なる王族としてだけではなく、外交官としても活動した。ルスダンは1165年頃、ギオルギ3世の命を受け、アニの帰属を巡ってアゼルバイジャンのアタベク・シャムスッディーン・イルデギズとの外交交渉を担当した。
ルスダンの姪タマルは、1178年からギオルギ3世の共同王となっていたが、1184年にギオルギ3世が崩御すると、ルスダンはタマルを単独の王として再戴冠させるため、有力貴族層とタマルの間で仲介役を務めた。ルスダンはタマルの2度目の戴冠式を実現させるための交渉を主導した[3]。そして姪のタマルが即位すると、ルスダンはタマル女王の治世において多大な影響力を振るった[7]。
1185年、ルスダンはカトリコス総主教と協力し、タマルとウラジーミル大公アンドレイの子ユーリー・ボゴリュブスキーの結婚を画策した。タマルは当初、父ギオルギ3世によってメペ(王)[注釈 1]として戴冠していたが、2人の結婚によりユーリーもメペの称号を得ることになり、タマルの称号は「王の中の王、女王の中の女王」へと変わった[8]。その後、タマルは1187年にユーリーと離婚し、1189年にアラニア王国の王子ダヴィト・ソスラニと結婚した[3]。
1191年、ユーリー・ボゴリュブスキーは反乱を起こしたが鎮圧された。この際、ルスダンが仲裁したことによりタマルはユーリーは助命され、ユーリーは国外追放処分に留まった。
文化への影響
ジョージアの歴史学および文化において、ルスダンは主に「タマル女王を育てた叔母」として認識されているが、他の王族とは異なり、ルスダンについて知られている情報は極めて少ない。ジョージアの歴史学者でルスタヴェリ研究家でもあるイオセブ・ゴガティシヴィリは、その著書の一つの中で、古典的叙事詩『豹皮の騎士』は歴史的事実と出来事に基づいて執筆されたものであると主張している。例えばゴガティシヴィリは、『豹皮の騎士』作中のアラビアの王「ロステワン」とアラビアの騎士「アフタンディル」を、実在のダヴィト3世とバグラト3世になぞらえている。また、インドの王「ファルサダン」、インドの騎士「タリエル」、インドの王女「ネスタン・ダレジャン」については、それぞれギオルギ3世、ショタ・ルスタヴェリ、そしてタマル女王に例えている。ゴガティシヴィリの考えによると、カジェティの王妃「ダヴァル」の歴史的原型はルスダンであるとし[9]、インドの王ファルサダンが知恵を学ばせるために娘ネスタン・ダレジャンを妹ダヴァルの元へ預けたという叙事詩の記述は、ルスダンがタマル女王を養育した史実を反映していると主張している[9]。
ゴガティシヴィリはその主な論拠として、『豹皮の騎士』から次の一節を引用している。
ダヴァルは王の妹であり、未亡人であり、カジェティへと嫁いだ。 そして王は、知恵を学ばせるために、実の子を彼女に預けた。