ダヴィト3世 (タオ大公)

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ダヴィト3世
დავით III
オシュキ修道院英語版にある、ダヴィト3世のレリーフ。ビザンツ帝国の図像を使用しており、その後2世紀にわたりジョージア王の権威の表現方法に影響を与えた[1]

イベリアのクロパラテス
在位期間
990年 – 1001年
先代 アダルナセ5世英語版
次代 バグラト3世

タオ大公
在位期間
966年 – 1001年
先代 バグラト2世

出生 930年代
死亡 1000年または1001年3月31日
王朝 バグラティオニ朝
父親 アダルナセ5世英語版
信仰 ジョージア正教会
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ダヴィト3世ジョージア語: დავით IIIジョージア語ラテン翻字: Davit III930年代1000年または1001年3月31日)は、歴史的地域タオを統治した大公エリスタヴト=エリスタヴィ)。ビザンツ帝国の高位称号であるクロパラテス英語版としても知られる。

ダヴィト3世はビザンツ帝国の内戦で皇帝バシレイオス2世に味方し、決定的な援助を与えた。またジョージアの諸勢力を政治的に統合する上で特徴的な役割を担い、養子バグラト3世によるジョージア統一英語版の基盤を確立した。

ビザンツ帝国との同盟

ダヴィト3世はアダルナセ5世英語版(第二タオ家当主)の末子である。この第二タオ家は、バグラティオニ家のカルトリ支系の一つであり、元々のタオ系が940年代に断絶して以来、タオの地域を支配下に置いていた。

ダヴィト3世は930年代に誕生したとされる[2]。ダヴィト3世は966年に兄バグラト2世の跡を継いでタオ大公となった。ダヴィト3世は拡大主義的な政策と柔軟な外交を通じて、より大きな国家の統合に着手した。その野心的な計画を実行するため、ダヴィトはビザンツ帝国からの独立を確保する必要があった。当時、ビザンツ帝国は皇帝バシレイオス2世(在位: 976年–1025年)の治世下で最盛期を迎えつつあった。

ビザンツ帝国の東側の隣国⸺分裂状態にあったアルメニアとジョージアの公国群⸺は、帝国を直接脅かすことは稀であった。しかし、ビザンツ帝国はこれら公国群の領域を通る戦略的な国際交易路を支配していたことから、これら公国群はビザンツ帝国にとって重要な位置づけであった[3]。ビザンツ帝国はすでにアルメニアのタロンアルメニア語版(966年)やマンジケルト(968年)といった公国を併合しており、タオ=クラルジェティとして知られるジョージア・バグラティオニ朝の公国群にとって潜在的な脅威となっていた[4]。しかし、976年にバルダス・スクレロス英語版率いる大規模な反乱が勃発すると、これによりビザンツ帝国の統一自体が深刻な脅威にさらされた。反乱軍は一連の戦闘で勝利を収め、小アジアを席巻し、ビザンツ帝国そのものを脅かした。この緊急事態に際し、若き皇帝バシレイオス2世はタオのダヴィト3世に援助を要請した。ダヴィト3世は即座に応じ、イオアネ・トルニケジョージア語版の指揮下にある12,000騎の精鋭騎兵隊を派遣し、敗北したばかりの忠実なビザンツ将軍バルダス・フォカス英語版の救援に当たった。これにより、979年3月24日にカエサレア近郊で行われたパンカレイアの戦い英語版で、ビザンツ皇帝側の決定的勝利に貢献した[5]

ビザンツ帝国はダヴィト3世に報酬として、小アジア東部にある主要なビザンツ帝国領の終身統治権を与えた。この領地は、当時のジョージアの資料で「ზემონი ქუეყანანი საბერძნეთისანი」(ギリシアの上流の地)として知られ、主にアルメニア北西部の都市・地域⸺テオドシオポリスあるいはカリン(現在のエルズルム)、バシアニジョージア語版、ハルク(現在のムシュ)、アパフニクアルメニア語版マルディスタンアルメニア語版、ハルドヤリチ、チョルマイリなど⸺が含まれていた。この際、ダヴィト3世はビザンツ帝国の高位宮廷称号であるクロパラテス英語版を授かった。バシレイオス2世はまた、ダヴィト3世の指揮官トルニケの武勇を称え、アトス山にジョージア正教会の修道院を建設する資金を提供した。現在、この修道院は主にギリシャ人修道士が占めているが、今日でも「イヴィロン英語版」として知られている。イヴィロンは「イベリア人の」、すなわち「ジョージア人の」を意味する。

これらの巨大な領土獲得により、ダヴィト3世はコーカサスで最も影響力のある支配者となり、ジョージアとアルメニアの王朝間の紛争に介入し、仲裁を可能にした[4]。中世ジョージアの著述家はダヴィト3世を「タオのすべての王たちの中で最も偉大な」[注 1]と呼び、11世紀アルメニアの歴史家アリスタケス・ラストヴェルツィ英語版はダヴィト3世を次のように描写している[6]

力強い男であり、世界の建設者であり、非常に高潔であり、貧者を愛するものであり、まさに、平和そのものであった。彼の第二は、預言が述べているように、誰もが彼のブドウの木の下とイチジクの木の下で安らいでいた。

非常に重要な商業中心地を支配下に置いたダヴィト3世の公国は、コーカサス南西と東アナトリアを通る主要な交易路に課税することで利益を得た。ダヴィト3世はこれらの収入を大規模な建設事業に投資し、都市、要塞、聖堂を建設し、ジョージア国内外でジョージアの修道院共同体と文化活動を振興した。

継承問題

ダヴィト3世が金細工師アサティに作らせた「ブリリの十字架ジョージア語版」。十字架は銀で作られ、金箔で覆われている。

実子のいなかったダヴィト3世は、親族でありバグラティオニ朝イベリア王国英語版の王位継承者であった若き王子バグラト3世を養子とした。これは、精力的なジョージア貴族イヴァネ・マルシスゼジョージア語版の要請によるものであった。バグラト3世はその幸運な血筋により、二つの王位に就く運命にあった。さらに、母グランドゥフティ英語版が実子のいないアブハジア王テオドス3世英語版の妹であったため、バグラト3世はアブハジア王国英語版の継承者となる可能性もあった。ダヴィト3世は全ジョージアを統一する国家の建設を計画し、実行に移した。976年、養子バグラト3世のためにカルトリを占領し、岩窟都市ウプリスツィヘ英語版を有するカルトリ西部からカヘティ公国英語版の軍を撃退した。2年後の978年、ダヴィト3世とマルシスゼはテオドス3世を退位させ、バグラト3世にアブハジアの王位を渡した。

ダヴィト3世の幸運は987年に暗転した。ダヴィト3世は自らの広大な領土をバグラティオニ家の世襲にしたいと強く願い、長年の友人バルダス・フォカス英語版と結託してビザンツ皇帝バシレイオス2世に対する反乱を起こした。989年、反乱軍がビザンツ=ルーシ連合軍に敗北すると、バシレイオス2世はジョージアを罰するためにカルデアのヨハネス率いる強力な軍勢を派遣し、ダヴィト3世は降伏せざるを得なくなった。皇帝と和解したダヴィト3世は、自身の死後に領土をビザンツ帝国に返還することを約束し、990年頃に再びクロパラテス英語版の称号を授かった[2]

同時期、アブハジア王となっていたバグラト3世が、下カルトリの不従順なクルデカリ公ラティジョージア語版に対する征伐遠征を計画したが、別の問題が発生した。ダヴィト3世は、バグラト3世がタオを攻撃し、自身を殺害するつもりであると確信し、クルデカリへ進軍していたグルゲン(バグラト3世の実父)の軍を打ち破った。中世ジョージアの年代記作家は次のように記している[7]

バグラトはその後、[ダヴィトのもとへ]単身で行き、彼の足元にひれ伏して、自身はラティとの戦いに向かっていると誓った。[ダヴィトは]それを信じ、彼を平和に解放した。

イスラム勢力に対する遠征

ビザンツ皇帝や自らの親族たちと和解したダヴィト3世は、ヴァン湖アゼルバイジャン周辺のイスラム系アミール領、そしてトビリシ首長国英語版に対する一連の襲撃を成功させた。ダヴィト3世はバグラト2世英語版(バグラト3世の実祖父)やアルメニアガギク1世英語版と同盟を結んだ。993年頃、ダヴィト3世はディヤール・バクル英語版地方のマルワーン朝英語版アミールからマンジケルト英語版を奪還し、997年にはこのクルド王朝のもう一つの重要拠点アフラト英語版を襲撃した。またダヴィト3世はアゼルバイジャンのアミール・マムラン1世に2回勝利した。特に998年、エルジシュ英語版近郊で挙げた2回目の勝利は、決定的な打撃であった[8]

アルメニアの歴史家ステパノス・アソギク英語版はダヴィト3世について次のように述べている[9]

偉大なるクロパラテス、ダヴィトは、その慈悲深さと平和への愛において、同時代のあらゆる統治者を凌駕していた。ダヴィトは東方諸国、特にアルメニアとジョージアにおいて、平和と高潔な人格を確立した。彼は絶え間ない戦争に終止符を打ち、周囲に住むあらゆる民族を征服した。

ダヴィト3世は1000年初頭または1001年の初頭に、貴族たちにより暗殺された。11世紀アルメニアの歴史家アリスタケス・ラストヴェルツィ英語版によると[6]

彼ら[貴族たち]は聖木曜日の聖餐に毒を混ぜ、それを彼[ダヴィト]に飲ませ、それにより、あの尊敬すべき男は窒息死した。彼ら[貴族たち]は彼[ダヴィト]に辟易しており、以前に皇帝が約束した内容に関心を寄せていたからである。

年代記集『カルトリス・ツホヴレバジョージア語版』はダヴィト3世の没年を1001年としているが、アルメニアやイスラムの記録は1000年に死亡した可能性も示している。アリスタケス・ラストヴェルツィはダヴィト3世の死を1001年3月28日としており、アルメニアの別の年代記作家ステパノス・アソギク英語版の記述も裏付けとなっている。ステパノス・アソギクは、ダヴィト3世の没日について、アルメニア暦449年の復活祭の日と記している。さらに別のアルメニアの歴史家サムエル・アネツィ英語版も、ダヴィト3世の没年を1001年としている[10]

クロパラテス継承戦争

オシュキ修道院英語版にある、ダヴィト3世のレリーフ

当時、ローマ皇帝バシレイオス2世ファーティマ朝に対するシリア英語版遠征を終え、帝国東部・タルススの平地で冬営中であった。ダヴィト3世の死の報を聞いたバシレイオス2世は、ダヴィト3世が約束した領土を要求するため、タルススから北東へと進軍した。現地のジョージアとアルメニアの貴族たちは、大きな抵抗をすることなく服従した。唯一特筆すべき出来事は、1俵の干し草をめぐってジョージア兵とヴァラング親衛隊英語版隊員との口論が大規模な戦闘に発展し、6,000人のヴァラング親衛隊が関与し、ジョージアの高官貴族30人が命を落とした事件である。

ダヴィト3世の養子であったバグラト3世はバシレイオス2世と会談したが、ダヴィト3世が有していた領土の併合を阻止することはできず、クロパラテス英語版の称号と引き換えに新たな国境を承認せざるを得なかった[11]。この挫折にもかかわらず、バグラト3世は全ジョージア統一王国の初代国王となることができた。これは、ダヴィト3世の尽力による部分が大きく、現代の歴史学者スティーヴン・ラップジョージア語版はダヴィト3世を「ジョージア史の『トップ10』リストの上位にふさわしい人物」と評している[12]

現代の学者の間では、ダヴィト3世がビザンツ帝国に割譲した領土について、バルダス・フォカス英語版を支援した報酬として与えられた小アジア東部のみであったのか、それともダヴィト3世の公国全体であったのか、意見が分かれている。前者はダヴィトに終身の統治権として与えられたものであったため、ダヴィト3世の領土全体、すなわちタオ内陸部からヴァン湖付近を南限とする隣接アルメニア領すべてを割譲したとみなす考え方が合理的である。ダヴィト3世の領土がどれだけ広かったにせよ、ジョージアの王たちはこれらの領土の喪失を容易に認めることはなく、これが11世紀のビザンツ帝国との一連の紛争につながった[13]

遺産

ダヴィト3世は、ジョージア[14]とアルメニア[15]において、文学と教育を積極的に保護した人物として知られている。ダヴィト3世の提案により、エクヴティメ・ムタツミンデリジョージア語版アトス山ギリシア語の写本を多数翻訳し、ジョージアに送った。ダヴィト3世の治世下、壮麗な聖堂がいくつも建設された。これらの聖堂は現在も南ジョージアに残っている[14]

またダヴィト3世を刻んだ硬貨が、現在も残っている。この硬貨は、バシレイオス2世ヨハネス1世の硬貨と同様、ビザンツ貨幣の様式に倣って鋳造されたものである[14]

ダヴィト3世の尽力により、全ジョージアを統べる王国は、先代の王たちの夢物語ではなくなった。全ジョージアの統一は、バグラト3世を養子に迎えたことにより実現した。バグラト3世はダヴィト3世の従弟グルゲンの息子であり、幼少期にダヴィト3世の宮廷で養育されていた[16]

ダヴィト3世はカルトリアズナウリ英語版(貴族)たちを集め、次のように命じた[17]

彼[バグラト]こそがタオカルトリアブハジアの世襲の支配者である。私の息子であり、養子である。私は彼のモウラヴィ英語版[代官]であり助力者である。皆は彼に従え。

バグラト3世は男系を通じてジョージア諸王国(カルトリ、タオ=クラルジェティ)の継承者であり、また母系ではアブハジア王テオドス3世英語版の甥にあたり、アブハジア王国英語版の継承者でもあった[18]。そのためバグラト3世を養子に迎えることで、ダヴィト3世は統一ジョージア王国の構想を実行に移すことができた。その後975年、テオドス3世が没する3年前、ダヴィト3世はアルメニア王スムバト2世英語版を招き、バグラト3世やグランドゥフティ英語版とともにクタイシに集まった。そこでバグラト3世はアブハジア王として塗油の儀式を受けた[19]

彼[バグラト]は、祖父である偉大な王ギオルギのように、すべての事柄を統治し、正した。あるいは、それ以上であったかもしれない。なぜなら、バグラトはすべての振る舞いにおいて、養育者である偉大な王ダヴィト・クロパラテスに似ており、彼と同様にすべての善き事柄を決定したからである。

バグラト3世の王位継承については、クルデカリ公家英語版バグアシ家ジョージア語版)のような反抗的な氏族も含め、異議を唱える者は誰もいなかった。バグアシ家は、数世紀にわたってバグラティオニ家やその王国に多くの苦悩をもたらしてきた一族であった。

バグラト3世は、年齢に似つかわしくない洞察力と容赦のなさを備えていた[20]。バグラト3世は、王国の拡大と、分離主義的な反抗貴族たちの鎮圧を続けた[21]。バグラト3世は、バグラティオニ王家内の政敵がジョージアの王位を決して請求できないようにするため、自身の従兄弟たちを粛清することも行った[22]

脚注

参考文献

外部リンク

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