レオン=ポール・ファルグ
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パリ生まれ[1]。リセ・アンリ=カトルでアンリ・ベルグソンに師事し、シャルル=ルイ・フィリップ、アルベール・ティボーデ、アルフレッド・ジャリとの出会いを通して文学を志す[2]。ランボーやラフォルグなどの象徴派の影響を受け、初期の『新フランス評論』誌に寄稿したが、文芸の特定の流派には所属せず、一匹狼的に創作活動を行った[3]。1924年にポール・ヴァレリー、ヴァレリー・ラルボーとともに文学雑誌『コメルス』を創刊した[1]。詩集に『タンクレード』(Tancrède、1895年『パン』誌掲載)、『詩集』(Poèmes、1912年)、『音楽のために』(Pour la musique、1914年)、『空間』(Espaces、1929年)、『ランプの下で』(Sous la lampe、1929年)、『浮沈子』(Ludions、1930年)などがある。
音楽家との交流
ファルグはラヴェル、サティなど、近代フランスの作曲家・音楽家との交際によって知られ、ドビュッシーやラヴェルに関する随筆も残している[4]。
ファルグは1900年頃にラヴェルらと共に芸術サークル「アパッシュ」を旗揚げし、ドビュッシーの歌劇『ペレアスとメリザンド』など、当時の最先端の音楽を擁護した[5]。 1917年のバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)によるバレエ『パラード』(台本:ジャン・コクトー、音楽:エリック・サティ、美術:パブロ・ピカソ)に対するスキャンダルは、サティの裁判へと発展したが[6]、ファルグはコクトーらとサティを擁護し、法廷に詰め掛けた[7]。 また、1921年に行われたバレエ・スエドワ(スウェーデン・バレエ団)によるバレエ『エッフェル塔の花嫁花婿』(台本:コクトー、音楽:「フランス6人組」の合作)の初演の際には、ファルグは野次を飛ばす聴衆の顔をめがけてステッキを投げつけた[8]。