レスキュー・チェンバー
From Wikipedia, the free encyclopedia
モンセン少佐がレスキュー・チェンバーについての着想を得たのは、1925年9月25日にS-51の沈没事故が発生した直後であったとされている。このとき、モンセン少佐は遭難艦と同じS級潜水艦の1隻(S-1)の艦長であり、事故直後に乗艦を駆って現場に急行したが、当時は遭難潜水艦から脱出する方法も、また乗員を救出する方法も開発されていなかった。このことから、事故後、モンセン少佐はレスキュー・チェンバーの原型となる「救命鐘」の提案書を作成、海軍造修局に送付した。後に造修局に転属してからは、自ら救命鐘の実現のために奔走したが、1927年12月17日にS-4の沈没事故が発生するまでは顧みられることがなかった。事故後、直ちに開発許可が降り、1928年より試作された救命鐘を潜水艦救難艦「ファルコン」に搭載、また回収されたS-4を実験艦として改装しての試験が重ねられた。救命鐘の試作品は底が開いており、その名の通りに潜水鐘に近いものであったが、この試験の結果、密閉できる上部室と海水に曝露された下部室に分割されて、潜水球としての性格が強くなった。この改良機は、1930年秋に「レスキュー・チェンバー」として完成した[2]。
1939年5月23日に「スコーラス」の沈没事故が発生した時点で、アメリカ海軍には5基のレスキュー・チェンバーが配備されており、このうち「ファルコン」の搭載装置が、モンセン少佐自身の指揮下で救難作戦に投入された。この作戦によって33名が救出されたが、これは沈没時に殉職した26名を除く遭難潜水艦の乗員全員であった。なおこれは、沈没潜水艦から生存者の救出に成功した最初にして唯一の例である[2]。
レスキュー・チェンバー・システムは、第2次世界大戦後も長く潜水艦救難装置として採用され続けた。しかし本システムの運用深度はおおむね200メートル程度に制約される一方、潜水艦の作戦深度はどんどん深くなっていった。またやはり原理的に波浪など環境の影響を受けやすいという弱点もあったことから、1970年代から1980年代にかけて、自航能力を備えた有人潜水艇である深海救難艇(DSRV)によって代替されていくことになった[1][3]。
設計

レスキュー・チャンバーは、上記の通り、密閉できる上部室と下方が海水に曝露された下部室に分割されており、両者は密閉可能なハッチを備えた隔壁によって区分されている。またチャンバーが海面に浮上した際に乗員が乗降できるように、上部室の天井にもハッチが設けられていた。上部室には調整用のバラスト缶が円周状に並べられており、乗員と等しい重さだけ棄てられるようになっていた(右図では省略)。一方、下部室を取り囲むようにバラストタンクが設置されており、ここに注排水することでチェンバーの浮力状態を調整できるようになっていた。このために、バラストタンクと下部室とは注水移送パイプで繋がれており、これを操作する海水管が上部室に設置されていた。下部室には、メッセンジャー・ワイヤーや降下案内索を巻き取るためのリールが設置されていた[1][2]。
チェンバーと母艦は、圧縮空気を送るホースや電話線のほか、母艦から海面への揚降時や自力での浮上が困難になった場合に使用されるバックホール・ケーブルによって接続されている[1]。
なお、海上自衛隊初の潜水艦救難艦であった「ちはや」(34ASR)に搭載されていたチェンバーは、アメリカ海軍からの譲渡品で、高さ3.5メートル、直径2.1メートル、1回あたりの救難人員は6~8名とされていた[4]。
