ロスコー・ゴードン

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原語名 Rosco Gordon
出生名 Rosco N. Gordon III
ロスコー・ゴードン
原語名 Rosco Gordon
出生名 Rosco N. Gordon III
生誕
死没
ジャンル
職業
担当楽器
活動期間 1950年 - 2002年
レーベル

ロスコー・ゴードンRosco GordonまたはRoscoe Gordonと綴られることもあり。1928年4月10日 - 2002年7月11日[2])は、アメリカ合衆国ブルース歌手、ピアニストソングライターである。彼の最もよく知られた楽曲には「Booted」(1952年)、「No More Doggin'」(1952年)、「Just A Little Bit」(1959年)がある[3]。ゴードンはメンフィス・ブルースのスタイルの草分け的存在であった[4]

彼は、「ロスコー・リズム」と称されるオフビートを強調したスタイルでピアノを弾いた[5]。このリズムは後にジャマイカのスカレゲエに影響を与えることとなった。

ゴードンは1928年4月10日テネシー州メンフィスに、8人兄弟の末っ子として生まれた[6]。彼は、ピアノのレッスンを受けていた姉からピアノを教わった。ゴードンはジョニー・エイス、ボビー・ブランドB.B.キングらとプレイするようになり、彼らは「ビール・ストリーターズ」という名前でも知られるようになった[5][7]。1946年、ゴードンは「メンフィスでもめ事に巻き込まれ後」、シカゴに移住した[6]。彼は1949年にメンフィスに戻り、翌1950年にはビール・ストリートのパレス劇場でのアマチュア・コンテストにおいて優勝している。このコンテストのMCを務めていたのがルーファス・トーマスで、彼はラジオ局WDIAにおける自身の番組にゴードンを招いてプレイさせた。間もなく、ゴードン自身も番組を持つようになっている[6]

1951年、WDIAのマネージャーだったデイヴィッド・マティスは、ゴードンをプロデューサーサム・フィリップスに紹介した[6]。ちょうど同じ頃に、彼はモダン・レコードのビハリ兄弟のタレント・スカウトをしていたアイク・ターナーからスカウトを受けた[8]

彼のデビュー・シングル「Saddle The Cow (And Milk The Horse)」はモダン傘下のRPMレコードより1951年6月にリリースとなり[9]ビルボードR&Bチャートの9位を記録している[10]

続くゴードンのシングル「Booted」はフィリップスのメンフィス・レコーディング・サーヴィスにてレコーディングされた[8]。彼はこれをチェス・レコードにライセンスし、同レーベルより、1951年12月にシングル・リリースとなった[11][7]。ゴードンはRPMにもこの曲のレコーディングを行ない、それは1952年1月にシングル・リリースとなっている[12][4][13]。RPM盤については1952年3月、R&Bチャートの1位を獲得した[6][3][14]

チェスとRPMのビハリ兄弟はゴードンを巡る権利で対立していたが、ビハリ兄弟がゴードンに対する独占的な権利を持つとする一方、チェスはハウリン・ウルフについて独占契約をするということで、両者は最終的に問題を解決した[15]。ゴードンは何年もの間、自身の楽曲についてロイヤルティーを受け取れずにいた。彼は次のように語っている。「サム・フィリップスは100ドルくれた。100ドルだよ。ロイヤルティーはなかった。全くない。ビハリ兄弟は600ドルくれたんだ。でも、やはりロイヤルティーはなかった。全くね。しかし私はよくわかっていなかったんだよ[6]。」

ゴードンは1952年、「No More Doggin'」もR&Bチャート2位のヒットとなっている[16][12]。1952年から1959年の期間に、ゴードンはデュークサン、フリップ、ヴィージェイといったレーベルから数々のシングルをリリースした。彼の楽曲で最後にチャート入りをしたのは、1959年の「Just A Little Bit」であった。これはヴィージェイ・レコードからシングル・リリースとなり、R&Bチャートの2位、ポップ・チャートの64位を記録している[3][4]

この曲はR&Bのスタンダートとなり、エタ・ジェイムズエルヴィス・プレスリージェリー・バトラーなど多くのアーティストによってカバーされたが、彼に支払われたのは250ドルだけで、何百万枚も売れたカバー・バージョンについてのロイヤルティーが支払われることはなかった。これはシングル・リリースより前の時期にゴードンがキング・レコードに送ったデモ・テープを聴いた同レーベル・プロデューサーだったラルフ・バスが、自身の名義で著作権登録をしてしまったからであった[6]

1950年代後半には、ゴードンは海外にツアーに出かけるようになり、南米やカリブ海の島々での公演を行なった。彼のオフビート・リズムのテクニックがこれを機会に初期のスカ、レゲエに影響を与えている[5]

1962年、ゴードンは音楽業界から引退し、結婚したばかりの妻とともにニューヨーク州のクイーンズに引っ越した。ここではポーカーで勝って得た資金を使いランドリー事業の共同経営権を購入している[5]。1969年、ゴードンは自身のレコード・レーベル、バブロックを設立し、自宅でこれを経営した。しかしながら自身は1981年まで演奏活動に戻ることはなかった。1983年、彼はロンドンの100クラブでレコーディングしたアルバム『Rosco Rocks Again』をリリースしている[17]。1984年に妻が死去すると、彼は再びツアーに出るようになった[5]

2000年には、ゴードンはブルース・ギタリストのデューク・ロビラードと組み、アルバム『Memphis Tennessee』をリリースした[18]。2002年、ゴードンはリチャード・ピアース監督のドキュメンタリー映画への出演要請を受け、2002年5月のW.C.ハンディー賞授賞式にあわせる形で企画されたサム・フィリップス・トリビュート・コンサート出演のため、メンフィスを再び訪れた。この映画「ロード・トゥ・メンフィス」はPBSで放映されている[19]。映画撮影終了の僅か6週間後の2002年7月11日、ゴードンは心臓発作のためクイーンズのレゴ・パークの自宅にて死去した。74歳だった[7]。残された家族には、3人の娘たち(ヴィクトリア、デボラ、ルビー)と、3人の息子たち(マーク、ロスコーIII世、キース)と、妹エラ・ゴードン・ジェファーソン、および10人の孫たちがいた[5]。彼はニュージャージー州リンデンのローズデイル墓地に埋葬されている。

没後の2026年、彼はブルースの殿堂入りを果たした[20]

ディスコグラフィー

脚注

外部リンク

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