ワイノニー・ハリス
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| ワイノニー・ハリス | |
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ハリスの広報写真 | |
| 基本情報 | |
| 原語名 | Wynonie Harris |
| 生誕 | |
| 死没 | |
| ジャンル | |
| 職業 | 歌手 |
| 担当楽器 | ボーカル |
| 活動期間 | 1935年 – 1969年 |
| レーベル | アポロ、フィロ、キング、アラディン、ルーレット、チェス |
ワイノニー・ハリス(Wynonie Harris、1915年8月24日 - 1969年6月14日)は、アメリカ合衆国のブルース歌手である。陽気でサウンドとときに下品なユーモアあふれる歌詞で知られた。彼は1946年から1952年の間に15曲のトップ10ヒットを記録した。彼をロックンロール創始者とする識者は多い[2][3]。 彼の「Good Rocking Tonight」はロックンロールの先駆け的な楽曲である[4]。
彼の下品なブルースのレパートリーには「Lolly Pop Mama」(1948年)[5]「I Like My Baby's Pudding」(1950年)[6]、「Sittin On It All the Time」(1950年)[6]、「Keep On Churnin' (Till the Butter Comes)」(1952年)[7]、「Wasn't That Good」(1953年)[7]などがある。
幼少期と彼の家族
ワイノニー・ハリスは1915年8月24日、ネブラスカ州オマハに生まれた。
ハリスの母親、マリー・フッド・アンダーソンは、彼を出産した際15歳で未婚であった。彼の父親が誰であるのかはわかっていない。彼の妻、オリーヴ・E・グッドロウと娘のパトリシア・ヴェストによると、彼の父親はブルー・ジェイという名のネイティブ・アメリカンであったという。1920年に彼の母親が15歳年上のルーサー・ハリスと結婚するまで、家族には父親的人物がいなかった。
1931年、16歳のときハリスはノースオマハの高校を中退した。その翌年、彼の最初の子供となる娘のミッキーがナオミ・ヘンダーソンとの間に生まれている。その更に10ヶ月後には長男のウェズリーがローラ・デヴローとの間に生まれた。どちらの子供も母親によって育てられた。ウェズリーは歌手となり、ファイヴ・エコーズ、ザ・サルタンズで活動し、後にプレストン・ラヴのバンドの歌手、ギタリストとなっている。
1935年、ハリスが20歳のときに彼は16歳だったカウンシルブラフス出身のオリーヴ・E(オリー)・グッドロウと付き合うようになった。彼女は隣町のオマハまで、彼の演奏を聴きに来ていた。1936年5月20日、オリーはハリスの娘、エイドリアナ・パトリシア(パティー)を出産した。ハリスとオリーは1936年12月11日に結婚している。オリーは女性バーテンダー、看護婦として働き、ハリスはクラブで歌う傍ら、パートタイムの仕事もして稼いだ。パティーの面倒を主に見たのはハリスの母親であった。1940年、ワイノニーとオリーは、パティーとハリスの母親をオマハに残してロサンゼルスに移住している。
キャリア初期
ハリスは1930年代初頭にヴェルダ・シャノンとともにダンス・チームを結成した[8]。彼らは繁茂するノースオマハのエンターテインメント街でパフォーマンスをし、リッツ劇場でレギュラー出演者となった。1935年には、オマハで有名人となったハリスは世界大恐慌の真っ只中だったにもかかわらず、エンターテイナーとして生計を立てられるまでになったいる。
シャノンとともにジム・ベルのナイトクラブのパフォーマンスを行なっていた際、彼はブルースを歌うようになった。彼はカンザスシティへ頻繁に出向き、ジミー・ラッシングやビッグ・ジョー・ターナーらブルース・シャウターたちを熱心に見るようになった。彼はカーティス・モズビーが経営するナイトクラブでブレイクした。彼が「ミスター・ブルース」として知られるようになったのはこのクラブでのことである。
ラッキー・ミリンダーとの活動
1942年から1944年にかけての米国におけるミュージシャンのストライキの間、ハリスはレコーディングをすることができず、ライヴ活動に頼らざるを得ない状況であった。コンスタントに活動を行なっていた彼は、1943年後半にシカゴのランブギー・クラブに出演した。彼はそこでラッキー・ミリンダーに見初められ、彼のツアー・バンドに参加することとなった。ハリスは1944年3月24日、ミリンダーのバンドがシカゴのリーガル劇場で1週間に渡る公演を行なっていた際、このバンドに加入した。
彼らはニューヨークへ場所を移し、4月7日、ハリスはミリンダーのバンドとハーレムのアポロ・シアターでデビューを果たしたのであった。ハリスが初めて「Who Threw The Whiskey In The Well」[注釈 1]を公の場で歌ったのはこのときであった。
アポロ・シアター公演の後、彼らは同じくハーレムにあったサヴォイ・ボールルームに移ってレギュラーで公演をするようになった。この頃、ハリスの幼なじみのプレストン・ラヴがアルト・サクソフォーン奏者のタブ・スミスの代わりにバンドに加入した。1944年5月26日、ハリスはラッキー・ミリンダーと彼のオーケストラとレコーディング・デビューを果たした。彼はその日レコーディングされた5曲のうち2曲「Hurry, Hurry」、「Who Threw The Whiskey In The Well」でボーカルを取っており、これらはデッカ・レコードからリリースとなっている。第二次世界大戦中のSP盤原料のシェラックの禁輸措置はこの時点ではまだ解除されていなかったため、レコードの発売は遅れた。
ハリスの成功と人気は、ミリンダーのバンドの全米ツアーとともに拡大したものの、彼とミリンダーは金銭の問題で仲たがいし、1945年9月、テキサス州サンアントニオの公演中にハリスはバンドから脱退した。その3週間後、ハリスがバンドから抜けたと聞きつけたヒューストンのプロモーターがミリンダーのバンドの公演の開催を拒否した。ミリンダーはハリスに電話をかけ、彼が要求していた一晩100ドルの支払いをすることを彼に伝えたのだった。これによってプロモーターは再びブッキングを有効にしたものの、この公演がハリスとミリンダーが共演した最後となった。その後はブル・ムース・ジャクソンがハリスの後任ボーカリストとなっている。
1945年4月、レコーディング日から1年後に、ラッキー・ミリンダーと彼のオーケストラはデッカより「Who Threw The Whiskey In The Well」をリリースした[8]。この曲はグループ最大のヒット曲となり、ビルボードのR&Bチャートで7月14日に1位を記録した後、8週間に渡りその座を維持した。5ヶ月近くの間、チャートに入り続け、白人層にも人気となった[注釈 2][9][10]。
この曲のヒットは、ハリスにとってカリフォルニアで新たな扉を開くきっかけとなった。デッカの契約はミリンダーとのものであったが、ハリスはフリー・エージェントとなり、彼自身の契約を締結する道が開けたのである。
ソロ・キャリア
1945年7月、ハリスはレオとエドワード・メスナー兄弟が経営するフィロ(Philo)・レコードと契約した。ジョニー・オーティスが集めたメンバーでハリスのバンドは結成され、彼らはSP盤シングル「Around The Clock」(1945年)をレコーディングした。この曲はチャートのトップを飾ることこそなかったものの人気曲となり、ウィリー・ブライアント、ジミー・ラッシング、ビッグ・ジョー・ターナーなど多くのアーティストがカバーしている。
ハリスは、以後アポロ、ブレット、アラディンなど複数のレーベルにレコーディングをしている。中でも最大の成功を収めたのがシド・ネイサンのキング・レコード時代で、1940年代から50年代初頭にかけて、ここで多くのR&Bチャートのヒットが生まれている。その中には1948年のロイ・ブラウンのカバー「Good Rocking Tonight」[注釈 3]、「Good Morning Judge」、「All She Wants To Do Is Rock」などがあった。1946年、ハリスは後にサン・ラの名でジャズ作曲家、バンドリーダーとして知られることとなるピアニストのハーマン・"サニー"・ブラウントとともに2枚のシングルをレコーディングし、ブレット・レーベルよりリリースしている[11][12]。
一部評論家は、ロイ・ブラウン(1947年)あるいはハリス(1948年)の「Good Rocking Tonight」[13]こそが、「最初のロックンロールレコード」の称号を争う候補であるとしている[14]。ブラウンがリリースしたシングル盤のレーベルには音楽のタイプとして「ロッキング・ブルース」と記されている[15]。ポール・マッカートニー・プロジェクトは「ハリスのバージョンは、黒人ゴスペル・スタイルの手拍子が入り、ブラウンのオリジナル・バージョン以上にエネルギーに満ちている」としている。同プロジェクトは更に「この曲は、セックスの婉曲表現としてではなく、音楽スタイルを説明する言葉として「ロック」を使った、当時最も成功したレコードであるとされている」と指摘している[16]。
1950年にハリスは、シングル「Sittin' On It All The Time」(B面「Baby, Shame On You」-King 4330)をリリースし、両面をヒットさせている。そして翌1951年にはハンク・ペニーのカバー「Bloodshot Eyes」(King 4461)をリリースした[17][18]。曲の素材に対する彼の際どいアプローチは、ときに「Keep On Churnin'」(1952年)、「Wasn't That Good」(1953年)などの楽曲を1950年代初頭、ジュークボックスでの人気曲に押し上げた[19]。その他、彼が録音した色好みの歌には、初期の曲「I Want My Fanny Brown」や「Lollipop Mama」などがある[20]。
ハリスは1945年から1952年の間にR&Bチャートで16曲をトップ10入りさせており、その中にロイ・ブラウンの「Good Rocking Tonight」の決定版と言えるバージョンも含まれている。これは1948年にビルボードのチャートに25週に渡り食い込み続けた[21]。
後年
ハリスは1954年から1964年にかけていくつかのレコード・レーベルを渡り歩いている。1960年には、彼はルーレット・レコードからヒット曲「Bloodshot Eyes」のリメイクを含む6曲をリリースした[22]。彼はこの頃借金を抱え、以前よりも質素な暮らしをすることを余儀なくされている[8]。
1964年、ハリスは再びロサンゼルスに移住している。彼の最後のレコーディングとなったのは1964年にチェス・レコードに残した「The Comeback」、「Buzzard Luck」、「Conjured」の3曲であった[23]。彼の最後の大舞台は1967年11月のアポロ・シアター公演で、彼はここでビッグ・ジョー・ターナー、ビッグ・ママ・ソーントン、ジミー・ウィザースプーン、T-ボーン・ウォーカーとともにステージに立っている[24]。
死去
ハリスは1969年6月14日、食道癌のためロサンゼルスの南カリフォルニア大学メディカル・センター病院で死去した。53歳であった[8]。
レガシー
1994年、トニー・コリンズによって彼の評伝が出版されている[25]。
20世紀末以降、彼の音楽への関心が再び高まっている。彼の作品の一部が再発され、彼自身没後に賞を受けている。
- 1994年: ブルース・ファウンデーション主宰のブルースの殿堂入りを果たした[26]。
- 1998年: ネブラスカ州リンカーンにて、ネブラスカ州ロックの殿堂入りを果たした[27]。
- 2000年: ネブラスカ州オマハのオマハセントラル高等学校の殿堂入りを果たした[28]。
- 2005年: オマハ黒人音楽の殿堂入りを果たした[29][注釈 4]。
2014年、ハリスの楽曲「Grandma Plays The Numbers」はコンピュータRPG「Fallout 4」に使用された[30]。
ブルースの殿堂は以下のコメントを発表している。「ハリスは1952年以降も散発的にレコーディングを続けたものの、かつてジャンプ・ブルースのキングの一人として得た栄光や成功を再び再現するには至らなかった。今日では、彼はロックンロールの基礎を築いたこととして最もよく知られている[31]。」
エルヴィス・プレスリーに与えた影響
エルヴィス・プレスリーは1950年代初頭のメンフィスでハリスのパフォーマンスを見ている可能性があるものの、これは確認されていない[32][33]。トランペット奏者でハリスの音楽プロデューサーだったヘンリー・グローヴァーによると、プレスリーは「ワイノニーの発声法や身体の動きの多くについて真似をしていました。エルヴィスのパフォーマンスはワイノニーの穏やかなバージョンを見ているようなものだったのです[33]。」ハリスは1956年のインタビューで、プレスリーによる腰の動きはハリスでは起きなかった論争を巻き起こしたと語っている。「多くの人が彼が腰を振ることを問題視しています。私が腰を振っても問題にもされないのにね。彼には私が金を払っても得られないほどの影響力があるんですよ[34]。」