ヴァルター・ドルンベルガー
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ロケット兵器開発任務従事まで
ドルンベルガーは、1895年9月6日、ドイツ西部のギーセンに生まれ、第一次世界大戦時は、陸軍砲兵将校として従軍する[1]。1918年10月、西部戦線で捕虜となり、2年間程フランスで捕虜生活を送る[1]。
ドイツは第一次世界大戦に敗戦し、ヴェルサイユ条約締結によって、ドイツは軍備を制限された[2][3]。だが、ヴェルサイユ条約によって課された軍備制限は完璧ではなく、例えば大砲について言えば、口径は規制されていたものの、到達距離は規制されていなかった[4]。つまり、口径はそのままで、到達距離を拡張することは許されているなど抜け道があった[4]。第一次世界大戦当時もロケットの技術は知られていたが、兵器としての実用性が低く、ヴェルサイユ条約ではロケットの研究開発については制限されていなかった[2]。そこで、1929年、ドイツ軍の陸軍軍人カール・ベッカー大佐は、当時未知の技術であったロケットを兵器として利用することを検討する[2][4]。ベッカーは、当時大尉であったドルンベルガーに固体燃料ロケットと液体燃料ロケットの研究開発を命じる[1]。
ドルンベルガーは、捕虜生活から解放された後、1925年からは軍に所属しつつも、ベルリン工科大学にも籍を置き、大学卒業後に、ロケットの研究開発の命令を受けた[1]。固体燃料ロケットの研究開発は早々に成果を挙げたものの、液体燃料ロケットの研究開発は難航した[5]。
ロケット兵器の本格開発と打ち上げの成功

液体燃料ロケットの開発に難航したドルンベルガーは、ヴェルナー・フォン・ブラウンら若手の研究者に接触し、ロケット兵器の開発に引き込むことに成功する[6]。ロケット兵器の開発の任務を受けたドルンベルガーであったが、事務用品の調達が難儀した[7]。ドルンベルガーは調達する事務用品を婉曲的に表現し、それでも誤魔化せない場合は「機密」と称して発注した[7][8]。一例としては、鉛筆削りは、「直径10mmの木材を削る機械」として発注し、タイプライターは「回転ローラーによって試験データを見本通りに記録する装置」という風に発注した[7][8]。
ドルンベルガーは、ロケットと言う名称を避けて、集合体(アグリガット)と言う名称を使うことにし、頭文字のAと連番で呼称することにした[9]。
そして、1933年初めには、ロケットエンジンの燃焼実験に成功する[9]。A1ロケットも地上での試験が成功し、A2ロケットも1934年12月に、垂直飛行ではあるが、高度2kmにまで到達した[10][11][12]。
ロケット兵器開発の予算は膨れ上がり、そして更に大規模な開発を行うために、ドルンベルガーは、1936年3月、ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将に働きかけ、フリッチュは予算の増大を確約する[8]。更にドルンベルガーは、空軍のヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンにも働きかけ、1936年4月に空軍に対してロケット兵器の研究開発計画を説明し、これによって、手狭で人口稠密地帯のクンマースドルフから移転することと、新研究所の建築予算が空軍との折半で確保されることとなった[13][8]。新研究所の候補地は複数あったが、機密保持が図れる無人地帯で、海に対して打ち上げて、陸から観察ができるところとして、ペーネミュンデに研究所が設立されることになった[13] [8]。ペーネミュンデの研究所は1936年8月に着工され、1937年に完成し、陸軍と空軍が共用で使用することとなった[4]。
ロケット兵器の開発については、A3ロケットが1937年末に完成し、幾度か打ち上げられるが、失敗に終わる[14]。ドルンベルガーは1937年に大佐に昇進する[14]。前後するが、A4ロケット[注 1]の研究開発は1936年3月下旬から開始され、ドルンベルガーはA4ロケットの射程を、第一次世界大戦で使われていたパリ砲の2倍の約250kmに目標を定め、またA4ロケットが鉄道や道路での輸送が可能であることを要求仕様として定めた[15] [16]。
A4ロケットの開発と並行して、A3ロケットを小型化したA5ロケットの研究開発が行われ、1938年秋に完成し、高度は8km~12kmにまで到達した[17][18] [19]。また、速度は最高秒速360 mに達した[20]。
1939年3月20日、アドルフ・ヒトラーがロケット兵器の視察にやってくる[21][22]。ヒトラーに対して、ドルンベルガーとヴェルナー・フォン・ブラウンが説明に当たるが、意外なことにヒトラーはロケットには興味を持たなかった[21] [22]。ヒトラーは、兵器について興味を持ち、技術的な質問を次々にする傾向にあった[22]。しかし、ヒトラーの兵器の知識は第一次世界大戦時点のものに固定化されており、それが原因で未知のロケット兵器に関心を寄せなかったとされる[23]。ヒトラーから出た数少ない質問は、ロケット兵器の開発完了見込みと、ロケットの機体の素材を、入手が限られていたアルミニウムではなく、鋼鉄を使えないかと言う質問であった[21] [22]。ヒトラー訪問の数週間後に、ヘルマン・ゲーリングも視察にやってきたことがあったが、ゲーリングは実現不可能なロケット兵器の構想を熱心に語り、ドルンベルガーは、ゲーリングを楽天的で空想力豊かだと見ていた[22]。
1939年9月1日、第二次世界大戦が勃発し、ロケット兵器の開発も急ピッチで行われることとなった[24]。だが、ロケット兵器の開発推進を支持していた兵器局長のカール・ベッカーは、ヒトラーの逆鱗に触れた結果、1940年春に自殺し、ロケット兵器が開発の優先リストから外され、ドルンベルガーのロケット兵器の開発が暗礁に乗り上げそうになる[12][25][26]。ロケット兵器の開発優先度は後述するが、その後も下がることもあった。ドルンベルガーらが研究していたA4ロケットは1942年春に完成する[27]。
A4ロケットの初の発射実験は、1942年6月13日に行われたが、これは失敗に終わる[27][18][28]。この頃になると、独ソ戦の開戦が間近に迫っていたため、ロケット兵器の開発は優先度が再び下がっていた[27]。そこで、ドルンベルガーは、ロケット兵器の開発優先度を上げるため、軍と政府の高官を招待し、ロケット兵器の発射のデモンストレーションを行うという賭けに出る[27]。軍需省のアルベルト・シュペーア、空軍元帥のエアハルト・ミルヒ、海軍のカール・ヴィッツェル提督、フリードリヒ・フロム国内予備軍司令官を招待し、1942年8月16日、A4ロケットの打ち上げに立ち会わせた[27]。結果は、A4ロケットは高度12kmにまで到達したものの、制御を失い、海面に落下する[29][18][28]。打ち上げは想定通りにはならなかったが、この時打ち上げを見たシュペーアは感銘を受け、ヒトラーにロケット兵器について話したが、ヒトラーからの反応は薄く、「A4ロケットは一体いつになったら目標に命中させることができるのか」と問われ、軍と政府高官を招待したデモンストレーションの結果は芳しくなかった[29]。
だが、A4ロケットは1942年10月3日、3回目の発射実験でついに成功する[30][18]。この時、ロケットの噴射音は1分以上鳴り響き、結果的にロケットの高度は80kmないし100kmに達し、190km離れた地点に落下した[18][12][31]。
開発の停滞と権力闘争
A4ロケットの発射成功により、ロケット兵器の開発が進むかに見えたが、その後失敗が続き、1943年1月には10回目の発射実験が行われたが失敗に終わった[32]。試行錯誤した甲斐もあって、A4ロケットの発射成功率は増加したが、それでも1943年半ば時点でも成功率は5割程度だった[32]。
前後するが、1942年12月、ドルンベルガーはシュペーアに対して、ロケット兵器開発の優先順位を引き上げるよう要請し、ロケット発射場建設の許可を求めた[26]。その結果、シュペーアがロケット発射場の責任を取ることとなり、開発の優先順位が引き上げられたが、A4ロケットを量産することが引き換え条件となり、列車の生産で実績を上げていたゲルハルト・デーゲンコルプが、A4ロケットの生産を担当することになった[18][33][12]。
1943年3月から、ロケットの生産計画が開始されるが、生産計画の責任者であるデーゲンコルプは、列車の生産では確かな実績を残した人物であったが、ロケットの知識に欠けていたことと、ドルンベルガーは、デーゲンコルプが自身の上司であるカール・ベッカーを自殺に追いやった張本人と考えており、不和が頂点に達する[34] [12]。そこで、シュペーアが仲介に入ったが、タイミングが悪くヒトラーがA4ロケットがイギリス本国に到達しないという夢を見たという理由で、A4ロケットは再び最優先計画から外されてしまう[34][35]。

1943年4月上旬、親衛隊の長官ハインリヒ・ヒムラーが、ペーネミュンデに視察にやってくる[36][37]。ドルンベルガーは、ヒムラーの第一印象を知的な中学校教師と評し、ナチスの最高級幹部では極めて珍しく、工科大学を卒業していたため、A4ロケットに関する理解力が高く、質問内容も的確な印象を抱いた[38][37]。ドルンベルガーは、ヒムラーにA4ロケットの発射実験を見せたが、これは失敗に終わり、ヒムラーからは「近接兵器の開発に成功したわけですね。」と皮肉を言われてしまう[39]。ヒムラーは、ペーネミュンデの視察目的は、A4ロケットの研究開発が非常に重要であり、サボタージュや反逆から守るためであると述べた[36][37]。ヒムラー視察直後には、ペーネミュンデの研究所施設の陸軍の責任者が更迭されるなど、ドルンベルガーはナチス・ドイツにおける権力闘争に巻き込まれることになる[3][36][37]。
1943年5月26日、陸軍のA4ロケットと、空軍のFi103の発射実験が行われ、両兵器とも2回実験が行われた[40][41]。Fi103は2回とも実験に失敗したが、A4ロケットは2回とも発射に成功し、数日後、ドルンベルガーは少将に昇進した[40][41]。
その後、1943年7月7日、シュペーアからドルンベルガーに対して、ヒトラーとの面会要請を打診され、ドルンベルガーはこれを承諾した[40][42][43]。ドルンベルガーとフォン・ブラウンは、ヒトラーにA4ロケット発射の映像を見せたり、技術的な内容の説明を行った[40][12]。ヒトラーは、1939年の時とは異なり、ロケットに興味を持ち、ドルンベルガーに対して謝意を表した[40][42]。A4ロケットの開発に気をよくしたヒトラーは、威力を高めるため弾頭重量の増量と生産数の増大が可能かをドルンベルガーに確認したが、ドルンベルガーは不可能であると回答したため、ヒトラーは激高し、フォン・ブラウンがヒトラーをなだめた[44]。
その後、A4ロケットは宣伝省によって報復(ドイツ語でVergeltungswaffe)の頭文字をとって、V2ロケットと名付けられた(以降A4ロケットをV2ロケットと記載する)[44][45]。ヒトラーは、V2ロケットを5千基規模で発射し、ロンドンを攻撃するという構想があったが、ドルンベルガーは燃料事情がひっ迫しているという理由で反対した[46]。ヒトラーは、V2ロケットを奇跡の兵器と位置づけていたが、フォン・ブラウンとドルンベルガーはその考えに否定的であり、それだけの兵器は原子爆弾しかないと考えていた[45] [12]。

ヒトラーからの高評価を受けて、V2ロケットの生産がノルトハウゼンの工場で行われることとなった[47]。しかし、1943年8月、イギリス主体のハイドラ作戦が実施され、ペーネミュンデは空襲を受け、V2ロケットの技術者とその家族、その他労働力として使用されていた強制収容所の囚人が多数死亡し、合計で735名が空襲によって死亡した[48] [47]。ドルンベルガーは空襲によって死亡した者に対して弔辞を読み上げた[48]。そして、ドルンベルガーは空爆によって被害を受けたペーネミュンデの施設の復旧作業を必要最低限にするように命令した[49]。これは復旧作業を行わないことで、ペーネミュンデでの研究開発が放棄されたように見せかけるためだった[49]。実際ペーネミュンデに対する空襲はその後しばらく行われず、次に行われたのは1944年夏のアメリカによるものだった[49][50]。
1943年9月、ヒムラーがハンス・カムラーをペーネミュンデの監督官に任命し、そして、先行して軍需省もデーゲンコルプを委員長とするV2ロケット特別委員会を設置していたことから、指揮系統が混乱する[36]。ドルンベルガーの権限は縮小され、フリードリヒ・フロム直属の部下となり、V2ロケットの訓練だけに対して発言が許されるという顧問役に転落する[36][51]。
終戦
1944年になると、戦局はますます悪化し、連合軍によるヨーロッパ大陸上陸は時間の問題となった[52]。その為にも、V2ロケットの実戦での投入を急ぐ必要があり、ドルンベルガーは技術的に未完成なV2ロケットを実戦に投入することを決めた[52]。
ドルンベルガーの地位と権力は極めて不安定であり、1944年2月下旬には、ヒムラーがフォン・ブラウンと接触し、V2ロケットの生産計画の進捗がはかばかしくないのは、ドルンベルガーに非があり、親衛隊ならばもっと援助ができるということをフォン・ブラウンに持ち掛け、自身の部下になるよう説得するという出来事もあった[53][54]。フォン・ブラウンはこの申し出を断ったが、翌月1944年3月、フォン・ブラウンらV2ロケットの開発者数名がゲシュタポによって逮捕されたという知らせがドルンベルガーの下にもたらされた[53][55]。ゲシュタポがフォン・ブラウンらの逮捕に至った経緯や詳細な容疑内容は文献によって異なっているが、いずれにせよV2ロケットの開発のサボタージュ行為が逮捕の容疑であった[53][56][46]。フォン・ブラウンらの無罪を信じるドルンベルガーは、フォン・ブラウンらを釈放するために、まずは陸軍のヴィルヘルム・カイテル元帥に掛け合ったが、カイテルも対応ができず、ヒムラーと交渉するよう持ち掛けられる[53][57][36]。結局、ドルンベルガーは、国家保安本部のゲシュタポのトップであるハインリヒ・ミュラーと交渉し、フォン・ブラウンらの釈放に成功する[注 2][56][36][59]。
V2ロケットに関する権限が制限されていたドルンベルガーは、1944年5月、フリードリヒ・フロムに対して、V2ロケット計画の全権を要求するが、これは却下された[51]。
1944年7月20日、陸軍軍人を主体としたヒトラー暗殺事件が起こり、ドルンベルガーの上司であるフリードリヒ・フロムが処刑され、陸軍は発言権を喪失する[60][36]。その代わりに、親衛隊のヒムラーの権限が拡大し、ヒムラーは、ハンス・カムラーをV2ロケット計画の責任者に任命し、1944年8月、ドルンベルガーは辞職を決意する[60][61]。だが、ドルンベルガーは、フォン・ブラウンらの慰留を受けて、辞職を思いとどまった[61]。1944年9月末になると、組織形態が見直され、ドルンベルガーは、V2ロケットの開発、生産、部隊の編成と訓練を管轄することになり、再びV2ロケットに深くかかわることとなった[60][61]。前後するが、1944年9月8日、V2ロケットが初めて実戦で使用され、パリに向けて発射された[62]。ロケットはパリの南東部に着弾し、6人が死亡し、35人が負傷した[62]。V2ロケットの発射開始1週間の戦果は、8~9発発射して、1発当たり死者2.7人という戦果で、死者は少なかったが、当時は迎撃手段がなかった[63]。V2ロケットは、1944年9月に350発、10月500発、それ以降毎月600発から900発が前線へと輸送された[61][63][64]。終戦までに発射されたV2ロケットの発射数は文献により異なるが、3255発[65]、4300発[64]、4500発[4]とされ、死者は約2700人に達した[65] [62]。1945年1月になると、ドルンベルガーは、シュペーアからの命令によって防空ミサイルの研究開発の任務が割り当てられた[66][36]。

1945年2月17日になると、敗戦は不可避であり、ペーネミュンデは破棄され、研究者達は同地を退避する[66]。その後、ドルンベルガーは、フォン・ブラウンの提案に基づき、アメリカ軍への降伏を決意し、1945年5月、アメリカ軍に投降した[67]。
戦後以降
アメリカ軍に投降したドルンベルガーであったが、V2ロケットによって被害を受けていたイギリスに身柄を引き渡され、イギリスはドルンベルガーを戦争犯罪人として裁判にかけようとした[67][35][68]。しかし、結果的には、ドルンベルガーは戦争犯罪で裁かれることは無く、2年間の捕虜生活を送った後、ペーパークリップ作戦によって、1947年、アメリカ空軍の手引きでアメリカに移住する[35][68]。ドルンベルガーはナチス党に入党していなかったことと、親衛隊に所属していなかったと言う経歴が幸いした[68]。
アメリカ移住後のドルンベルガーは、ベル・エアクラフトの技術顧問に就任し、宇宙航空機や、超音速ロケットの研究を行った[69][35]。ドルンベルガーは、1950年代には、アメリカのICBMの計画に関与しており、ミサイル・ギャップ論争が起きたとき、ソ連が短距離ミサイルによる攻撃を行うとして不安を煽り、存在感を示した[70]。
