一領具足
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一領具足は、平時には田畑を耕し、農民として生活をしているが、領主からの動員がかかると、一領(ひとそろい)の具足(武器・鎧)を携えて、直ちに召集に応じることを期待されていた[1][2]。
突然の召集に素早く応じられるよう、農作業をしている時も、常に槍と鎧を田畑の傍らに置いていたため、一領具足と呼称された[1][2]。また、正規の武士であれば予備を含めて二領の具足を持っているが、半農半兵の彼らは予備が無く一領しか具足を持っていないので、こう呼ばれていたともいう[3]。
このような半農半兵の兵士であるから、一領具足は通常の武士が行うべき仕事は免除されていた[1][2]。
農作業に従事しているために、身体壮健な者が多く、また集団行動の適性も高かったため、兵士として高い水準にあったと考えられる[1][2]。ただし、その半農半兵という性質上、農繁期の動員は困難であり、長期にわたる戦役には耐えられなかったと推測される[1][2]。
兵農分離によって農繁期でも大規模な軍事行動を起こせるようになった織田氏などの勢力と違い、長宗我部氏の一領具足は兵農未分離であることから、全く逆の方向に進化した軍事制度といえる[1][4]。
歴史
一領具足を考案したのは、長宗我部国親である(家臣の吉田孝頼という説もある)。もっとも積極的かつ効率的に一領具足を運用したのは、国親の跡を継いだ長宗我部元親である。
元親は精強な一領具足を率いて四国統一を果たしたが、豊臣秀吉による四国征伐によって領地は大幅に削減され土佐一国のみとなる。さらにその後の関ヶ原の戦いでは、家督を継承していた元親の四男の長宗我部盛親が西軍に与したため、戦後にその所領は没収され、改易となった[5]。
長宗我部氏の後継として土佐を与えられたのは山内一豊だったが、長宗我部氏の遺臣団は新領主の登場を必ずしも歓迎しなかった[6]。竹内惣右衛門を中心とする一領具足は、浦戸城の引渡しを拒否し、盛親に旧領の一部(土佐半国という)を与えることを要求した(浦戸一揆)。そのため、山内一豊は弟の山内康豊を鎮圧に派遣した。
遺臣団側は浦戸城に籠城して抵抗したが、城内の裏切りによって開城・降伏した[7]。一揆に加わった273人もの一領具足が討たれ[8]、その首は塩漬けにされて大坂城の徳川家康のもとへ送られたという。
その後も高石左馬助を中心とする滝山一揆など、一領具足による反乱が起こったが、山内家はこれを鎮圧し、やがて一領具足を中心とした長宗我部遺臣団を、藩士(上士)以下の身分である郷士として取り込んだ。山内家は懐柔策として名家だった者の一部を上士として取り立てたり、のちに郷士の一部を上士扱いの白札とするという弾力的な制度も取った。