長宗我部元親

日本の戦国時代の武将 From Wikipedia, the free encyclopedia

長宗我部 元親(ちょうそかべ/ちょうすがめ もとちか)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての 大名武将長宗我部氏第21代当主。長宗我部国親の長男。

生誕 天文8年(1539年
別名 通称:弥三郎[1]、土佐侍従[1]
渾名:姫若子、鬼若子、土佐の出来人、鳥なき島の蝙蝠、南海道一の弓取り
概要 凡例長宗我部 元親, 時代 ...
 
長宗我部 元親
絹本著色長宗我部元親像
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文8年(1539年
死没 慶長4年5月19日1599年7月11日
別名 通称:弥三郎[1]、土佐侍従[1]
渾名:姫若子、鬼若子、土佐の出来人、鳥なき島の蝙蝠、南海道一の弓取り
戒名 雪渓如三大居士
雪蹊恕三大禅定門
墓所 天甫寺山高知県高知市[注釈 1]
官位 従五位下従四位下宮内少輔[注釈 2]土佐守侍従、贈正三位
主君 細川晴元 / 一条兼定豊臣秀吉秀頼
氏族 長宗我部氏(自称仮冒秦氏
父母 父:長宗我部国親
母:祥鳳玄陽本山氏[4]
兄弟 元親吉良親貞香宗我部親泰島親益本山夫人本山茂辰室)、女(池頼和室)、養甫尼波川清宗室)、女(津野勝興室か)[5]
正室:元親夫人石谷光政の娘)[注釈 3]
側室:小少将[注釈 4]、小宰相、ほか
信親香川親和津野親忠盛親右近大夫、女(一条内政室)、女(吉良親実室)、阿古姫佐竹親直室)、女(吉松十右衛門室)、ほか
テンプレートを表示
閉じる

国司家である土佐一条氏を追い出し、土佐国を統一。その後、阿波国讃岐国伊予国の土豪らを倒して、四国の統一を果たした。

しかし、豊臣秀吉四国征伐によって降伏し、土佐一国の領有を許された。その後、秀吉の九州征伐小田原征伐文禄・慶長の役に従軍した。

内政面では、検地を行ったほか、分国法である「長宗我部元親百箇条」を定めた。

生涯

家督相続

天文8年(1539年)、長宗我部国親の嫡子として、土佐国長岡郡岡豊城で生まれる[4]。母は本山氏の娘・祥鳳玄陽[4]。土佐守護細川晴元偏諱を受け、元親と名乗る[注釈 5]

永禄3年(1560年)5月、元親は父の国親が土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いにおいて、実弟の親貞と共に初陣を果たした[6]。数え年23歳という遅い初陣であったが、元親は長浜表において本山勢を襲撃した長宗我部勢に加わり、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せたといわれる[7]。この一戦で元親の武名は高まり、長浜戦に続く潮江城(現筆山公園)の戦いでも戦果を挙げた[8]

6月、父の国親が急死すると、元親は家督を相続した[注釈 6]

土佐中部・東部の平定

元親は剽悍な一領具足を動員して、土佐国内で勢力拡大を行う。長浜戦で敗れた本山茂辰が元親の攻勢に押されるようになった一方で、元親は永禄3年末の段階で現在の高知市における南西部の一部を除いてほぼ支配下に置いた[10]

永禄4年(1561年)3月、元親は本山方の神田城・石立城を落として、茂辰を朝倉城と吉良城を残すまでに追い込む[11]

永禄5年(1562年)9月16日、元親は朝倉城攻めを行った[12]。だが、このときは茂辰の嫡子で元親の甥にあたる本山貞茂(親茂)の奮戦によって、撃退された[13]

9月18日、両軍が鴨部の宮前で決戦を行うが、決着はつかなかった[14]。そのため、元親は岡豊に帰還した[14]

だが、本山氏は勢力圏の縮小から茂辰を見限って元親に寝返る家臣が相次ぎ、永禄6年(1563年)1月に茂辰が朝倉城を放棄して、本山城に籠もった[14]。なお、元親はこのとき、土佐国司幡多郡中村城を中心に影響力を持ち「中村御所」と呼ばれていた土佐一条氏と連携していた[15]。茂辰が朝倉城を放棄したのは、一条氏が本山氏から高岡郡蓮池城を奪ったからとされ、東西からの挟撃を避けるためだったとみられる[15]

5月、本山方が頽勢挽回を図り、岡豊城の攻撃を企て、長宗我部領に侵入した[16]。本山勢に土佐神社を焼かれる被害にあうも、長宗我部方が反撃したため、本山勢は総崩れになって退却した[16]

この年、元親は美濃斎藤氏の縁者から正室である元親夫人石谷光政の娘)を迎えたほか、長弟の親貞に吉良氏を継がせている。また、次弟の親泰は国親の生前に香宗我部氏を継いでいる。

永禄7年(1564年)4月7日、茂辰は本山城を放棄し、瓜生野城に籠もって徹底抗戦する[17]。だが、この最中に茂辰が病死した[注釈 7]。茂辰の死後、貞茂が跡を継ぎ、元親に抗戦を続けた[17]

永禄10年(1567年)9月、元親は土佐一条氏家臣の源康政より、伊予国との国境地域に出兵を要請された[19][注釈 8]。元親はこれに応じ、重臣の江村親家を派遣した[19]。だが、重要な戦力を伊予に派遣したことで、元親の本山攻めが停滞したとみられる[19]

永禄11年(1568年)、元親は瓜生野を攻め、本山貞茂を降伏に追い込んだ(『元親記』、『土佐国蠹簡集』)[17][15][注釈 9]。元親は貞茂やその母(本山夫人、元親の姉)らを岡豊に送り、岡豊城下に居住させた[17][注釈 10]。こうして、元親は本山氏の旧領を支配下に入れ、土佐中部を完全に平定した[20]

永禄12年(1569年)7月、元親は土佐東部の安芸郡を支配する安芸国虎八流の戦いで破り、8月に自害にさせた[21]。元親はその旧領において、弟の香宗我部親泰を安芸城主にするなどし、土佐東部を平定するにいたった[22]

国虎の死により、長宗我部氏と土佐一条氏の対立は避けがたいものとなった[23]。『長元記』には、安芸氏が土佐一条氏と姻戚関係にあったことが記されているほか、安芸氏に一条氏の援軍が加わっていたとも記されている[24]

土佐統一

一条兼定

元親は土佐中部・東部を制圧すると、土佐一条氏が領する幡多郡・高岡郡といった土佐西部への進出を開始した[25]。すでに、一条氏は永禄10年から翌11年にかけての毛利氏の伊予出兵によって、その勢力を減退させていた[26]

長宗我部勢は安芸城を落としてから間もなく、土佐一条氏が高岡郡内に領する蓮池城を攻め、永禄12年11月頃までに落城させた[24][27]。長宗我部氏の側から断交したのか、あるいは土佐一条氏の側から断交したのかは不明であるが、長宗我部氏が本山氏を下し、安芸氏を滅ぼしたことが断交に繋がったとみられる[28]

元亀2年(1571年)、元親は土佐一条氏配下の津野氏を傘下に入れ、高岡郡内の諸領主も次々に長宗我部氏に下った[29][30]。その後、元親は三男の親忠を津野氏に養子として送り込んだ[31]

天正元年(1573年)、土佐一条氏当主の一条兼定が老臣の土居宗珊を手討ちしたことにより、一条氏の家中に混乱が発生した[32]。『土佐物語』には兼定が宗珊の諫言に激怒したことが発端として記されているが、『土佐軍記』では兼定が宗珊の裏切りを偽装した元親の策略に嵌められたからだとしており、詳細は不明である[33]

7月、一条家当主の一条内基が分家である土佐一条氏の家臣の求めに応じ、混乱の収拾のため、京都から土佐に下向した[33]。内基が京都から幡多郡に下向するためには長宗我部領の港を経由するはずであることから、元親は内基の下向を知っており、内基が呼ばれる段階から元親と土佐一条氏との間で協議があったとみられる[34]

9月、兼定が出家・隠居に追いこまれ、兼定の嫡子・内政が新たな土佐一条氏の当主となった[35]。この家督交代は、土佐一条氏の家臣らの合議によるものとされているが[36]、元親も絡んでいたとみられる[32]

天正2年(1574年)2月、兼定が家臣らによって、豊後国に追放された[37][38]。この兼定の追放は、元親が土佐一条氏への介入を進めるべく、内基と交渉したうえで、一条氏の家臣に行わせたとみられる[37]

だが、兼定の追放は土佐一条氏の家臣らに混乱を引き起こし、抗争を招いた[39]。そのため、元親は「危険な場所に内政を置くことはできない」とこの内訌に介入して、内政を幡多郡の中村城から長岡郡の大津城に移し、自身の娘を嫁がせ、「大津御所」という傀儡にした(大津御所体制[39][40]。元親は中村城に弟の吉良親貞を入れたことで、幡多郡を手中に収め、土佐をほぼ制圧した[39]

天正3年(1575年)5月、内基が土佐を離れ、京都に戻った[33]。その際、元親は内基から内政の庇護や養育を依頼されたという[33]

7月、兼定が再起を図って、大友氏や伊予南部の諸将の支援を得て、土佐に攻め込んできた[39][41]。大津御所体制に反発する土佐一条氏の家臣らが兼定を当主に戻そうと協力したことで、8月に兼定は中村城とその城下町以外の幡多郡を回復するに至った[42]。そのため、元親は一時窮地に追い込まれたが、吉良親貞の尽力のもと、9月中旬に四万十川の戦いで兼定を撃破した[43]。こうして、元親は幡多郡を取り戻し、土佐を完全に統一した[44]

元親は土佐統一後、中央で天下統一事業を進めていた織田信長との関係を構築し、『元親記』には信長から「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」との朱印状を与えられたと記されている[45]。また、元親は天正6年(1578年)10月に嫡男の弥三郎に信長の偏諱を得て、信親と名乗らせている[46]。元親と信長の交渉は、明智光秀と元親の縁者である斎藤利三が関与していた[46]

信長との関係構築の理由として天正5年の細川京兆家当主の細川昭元が信長の妹婿となったことがあげられる。土佐は細川京兆家が守護であり、長曾我部はその守護代という立場である。信親の偏諱も細川昭元が信良となったあとのことと考えられる。信長との外交によって阿波や讃岐攻めにおいて細川家領地を保護するという大義名分を手に入れた。四国切り取り放題の朱印状の正体はこの細川家領地の保護という大義名分のことと考えられる。

阿波・讃岐・伊予への侵攻

元親は土佐を統一すると、阿波国讃岐国伊予国にも侵攻していった[47]

阿波・讃岐方面では、畿内に大勢力を誇っていた三好氏が織田信長に敗れて衰退していたが、十河存保三好康長ら三好氏の生き残りは健在であり、天正4年(1576年)に白地城大西覚養を服属させるなどしたものの[48]、同年に弟の吉良親貞が早世したこともあって、当初は思うように攻略が進まなかった。しかし、天正4年(1577年)12月に三好長治が自害するなど、三好氏の凋落が顕著になる[49][50]

天正5年(1577年)8月、元親は平島公方足利義助に対し、阿波への出兵と所領の安堵を伝えた[51]。元親が平島公方を尊重する意思を示したのは、阿波はもとより四国では依然として、足利将軍家の家格による効力があったからである[51]

天正6年(1578年)2月、元親は阿波の白地城を攻め、大西覚養を讃岐に追い払った[52]。これは、覚養が長宗我部氏から離反し、安芸毛利輝元毛利氏に従ったためであった[53]。その後、元親は谷忠澄(忠兵衛)を白地城に入れ、阿波・讃岐・伊予各地への攻撃拠点とした[54]

同年、元親は次男の親和を讃岐の有力豪族・香川之景の養子として送り込み、同盟を結んだ[55]香川氏との同盟により、西讃岐の領主らは長宗我部氏と結びつこうとする者が多くなった[56]

阿波では、三好長治の実弟・十河存保と三好康長の嫡子・三好康俊が激しく抵抗するが、元親は天正7年(1579年)夏に重清城を奪って十河軍に大勝した[54]。康俊に対しても、岩倉城に追い詰め、実子を人質にとって降伏させた[57]

天正8年(1580年)、長宗我部氏は讃岐の十河城羽床城を包囲するなど、讃岐に勢力を拡大した[58]羽床氏は香川氏の斡旋で降伏し、人質を差し出した[59]

伊予方面においては、元親は東予地方に圧力と誘いをかけて、金子元宅妻鳥友春石川勝重らを味方につけた[60]中予地方を支配していた伊予守護の河野氏は、毛利氏の支援を得て、元親に抵抗した[61]南予地方でも、伊予西園寺氏との攻防が続いた[62]。そのため、元親の伊予平定は長期化することになった[63]。元親の伊予平定が容易でなかったことの一端は史料に遺されており、味方勢力だった喜多郡平郷北山の平出雲守が、伊予郡田所城から退却したことを止む無しとして咎めず、同じ喜多郡内子の曽祢宣高と相談して、作戦を継続せよと命じた書状が現存している[64]

織田信長との対立

織田信長

天正8年(1580年)6月、元親は香宗我部親泰を近江安土に派遣し、阿波岩倉城の三好康俊を服属させたことを信長に報告した。なお、この時のことを記した『信長公記』天正8年6月22日条において、元親のことを「土佐国捕佐せしめ候長宗我部土佐守」と表現していることが注目される。この「捕佐(=輔佐)」の意味については不詳とされてきたが、この当時の土佐は長宗我部氏によって統一されていたものの、土佐一条氏の当主である一条内政が未だに元親の庇護下に置かれており、信長は内政=国主・元親=輔佐すなわち陪臣と位置づけたと解する説が浮上した。つまり、信長は長宗我部氏の土佐支配そのものを暗に否認し、元親の行動に一条氏の家臣として織田政権の秩序に従属するように求めたというのである[65]

9月頃、三好勢が雑賀衆と共に、長宗我部氏から阿波の勝端城を奪還した[66][67]。その際、雑賀衆は「信長から朱印状をもらっている」と言っていたとされる[67]。この頃より、元親は信長に対して疑念を持つようになったとみられる[67]

11月、元親は織田方の羽柴秀吉に対し、緊迫する四国情勢を伝えた。その中では、讃岐の十河や羽床を攻めたことや、阿波南部の国人が離反したことなどを伝えているが、一方で阿波・讃岐を平定した後には秀吉の毛利攻めに参加する意向を示している[68]

天正9年(1581年)2月、元親は土佐国司の一条内政を追放し、土佐一条氏を頂点とする「大津御所体制」が崩壊した[69]。これは単なる土佐国内の問題ではなく、天正8年6月以後の状況の変化によって、元親の織田政権政策が強硬寄りに変更され、「信長―内政―元親」の秩序を拒否した結果とされている[65]。大津御所体制の解体を契機として、信長は元親に対する警戒を強め、対応を厳しくした[69]

3月、元親は信長の助力を得た三好康長・十河存保らの反攻を受けた[注釈 11]。康長は息子の康俊を寝返らせ、十河存保は中国で毛利氏と交戦している羽柴秀吉と通じて、元親に圧迫を加えた[注釈 12]

5月、南予地方の軍代であった久武親信宇和郡岡本城攻めで、伊予西園寺氏配下の土居清良との戦いで討死した[72]。なお、この戦いでは、織田政権の奉行が西園寺氏の肩を持ち[67]、「御上使」も派遣されていた[72]。このことから、長宗我部氏と織田氏の友好関係が崩れていたことがうかがえる[67]

6月20日、信長は長宗我部氏に阿波三好氏との停戦令を出し、阿波を南北で折半するように命じた[73][74][注釈 13]。そのため、元親は四国における領土を、土佐と阿波南半国のみの領有に制限されてしまった[73][74]

さらに、信長は羽柴秀吉の配下である生駒氏らを派兵し、11月までに淡路から阿波半国、東讃岐に至るまでを実効支配した[77]。同月、信長は淡路平定を受けて、三好康長に阿波と讃岐の領有を認める朱印状を与えた[78][79]

ここに、信長は阿波と讃岐に対する新たな方針を示し、長宗我部氏ではなく、三好康長に両国を領有させようとした[78]。元親としては、阿波三好氏と戦って得た阿波や讃岐の所領を失いかねない事態となった[78]

天正10年(1582年)1月、明智光秀が信長の意向を伝えられた元親の無念を察し、石谷頼辰(元親の義理の兄にあたる)を土佐に派遣して、元親を慰留するとともに[80]、信長の朱印状を渡した[81]。だが、元親は光秀に返事すら寄越さなかった[82]。信長の朱印状の内容は不明だが、「織田方に阿波と讃岐を差し出せ」という内容だった可能性が高く、これが事実ならば元親には到底受け入れられるものではなかった[83]

またこの頃、毛利輝元に庇護されていた足利義昭より、元親に対する調略が行われるようになった[80]。2月23日付で、義昭の側近・真木島昭光から土佐に逗留していた石谷光政(頼辰の父、元親の義父)に対して、元親に伊予の河野氏との和睦(予土和睦)を促し、自身の帰洛に尽力するように御内書が下されたことを記す書状が送られている[84]。光政は義昭の兄・足利義輝に仕えた奉公衆でもあった[84]

3月、輝元の使者が土佐の元親のもとに訪れると、元親は使者から「毛利氏が織田方と直接対決するにあたり、伊予に侵攻しないでほしい」と依頼された[85]。輝元が使者を送った背景には、信長との直接対決に備えて、河野氏や伊予西園寺氏から兵を借りる必要があり、その実現のためには、彼らと敵対していた長宗我部氏との同盟が不可避になったからと考えられる[85][86]

元親は依頼を受け、信長と義昭が不和であることや、信長が三好康長に阿波と讃岐の両国を宛がう朱印状を出したことを理由に前向きな姿勢をみせ、伊予勢が毛利氏に加勢した際の留守を狙わないことを約束し、予土和睦が成立した[87]。同時に、長宗我部氏と毛利氏との間で、芸土同盟も成立した[88][89]

5月7日、信長は四国国分案を出し、讃岐を三男の織田信孝に、阿波を三好康長に与え、土佐と伊予は自身が淡路に赴いた際に決めるとした[90]。この国分案には、元親や十河存保、伊予の河野氏は入っておらず、信長は元親の阿波や讃岐における権益を認めていなかった[91]

そして、同月に信長は信孝を総大将として、四国攻撃軍を編成させた[92]。三好康長がその先鋒として、同月上旬に阿波に攻め入り[93]一宮城夷山城を落としたため、守将の池内氏・野中氏は土佐に撤退した[82][注釈 14]。また、服属していた岩倉城の三好康俊もこれに呼応し、長宗我部氏から離反した。

5月21日、元親は明智光秀の家臣・斎藤利三に書状を送り、阿波の大西城海部城以外から撤兵し、信長の四国国分案を受け入れる意向を示した[95][94]。だが、元親は利三に書状を送る3日前、織田方に渡すはずの讃岐において家臣に土地を与えており、元親が信長の四国国分案にどこまで本気だったかは疑問が残る[96]

また、同21日に義昭の側近・真木島昭光が元親のもとにいた石谷光政に対して、輝元の仲介による長宗我部氏と河野氏の和睦を指示し、義昭の帰京に尽力するよう書状を送っている[95]。このことから、元親は義昭や輝元とも通じ、信長に対して和戦両様の構えを取っていたようである[95]

6月2日、織田方の四国攻撃軍が渡海する予定であったが、その日に明智光秀による本能寺の変が起こり、信長は横死した[注釈 15][注釈 16]。信長の死により、信孝の軍勢は四散し、四国への渡海は中止となった[96]。また、三好康長も変報を聞くと、阿波から撤退した[98][99]

本能寺の変から数日後、淡路水軍の菅達長が淡路の洲本城を織田方から奪っているが[99]、これは元親が裏で手を引いていた可能性がある[100]。元親が織田方と交渉しつつも戦闘態勢を整え、渡海してきた織田勢の退路を断ち、撃破する計画を立てていたという見方もできる[96]

阿波の攻略・秀吉との対立

仙石秀久

信長の死後、元親は近畿の政治空白に乗じて、再び勢力拡大を図るようになった[98]。元親は岡豊城内において、家老や一両具足らと阿波攻略について話し合った[101]

8月、元親は宿敵であった十河存保を中富川の戦いで破って、阿波の大半を支配下に置いた[102]。存保は一宮城と夷山城を放棄し、勝端城に退いた[102]

中富川の戦いののち、一宮城主の一宮成相富岡城主の新開道善と結び、反長宗我部勢力を結集しようとした[102]。元親はこの動きを察知し、9月3日に成相を夷山城で、16日に道善を丈六寺でそれぞれ殺害した[103]

元親は後方の憂いを断つと、勝端城に籠もった存保を攻めた[104]。これに対して、9月初旬に羽柴秀吉が十河存保を救うべく、配下の仙石秀久らを淡路から渡海させた[105][注釈 17]。秀吉は阿波と讃岐の攻略する信長の方針を受け継ぎ、長宗我部氏と対立した[105]。信長の死によって、元親と織田方との和解が事実上不可能となり、その織田方の路線を引き継いだ秀吉とは、当初から不協和音が生じることになった[107]

9月21日、元親は勝端城を落城させ、阿波を完全に平定した[104]。存保は阿波を離れ、讃岐の虎丸城に逃れた[104]

10月8日、阿波守護の細川真之が自害した(『三好記』)[108]。真之の死の詳細については不明な点が多いが、一宮成相らの殺害に関連して、阿波を制圧した元親ら長宗我部氏による旧勢力の粛清が行われた可能性がある[108]

讃岐の攻略・柴田勝家らとの連携

柴田勝家

阿波から讃岐に逃れた十河存保であったが、長宗我部氏に対抗すべく、秀吉に援軍を求めた[注釈 18]。秀吉は仙石秀久を救援に向かわせ、屋島城・高松城など讃岐の長宗我部方の城を攻めさせるも、敗退した[109]。さらに、小西行長の水軍に香西浦を攻めさせるも、これも敗退した[109]

10月、元親は讃岐に入り、十河城を攻めた(第一次十河城の戦い[110][111]。だが、冬が近づき、兵糧の運搬が困難になったため、元親は帰国した[110]

天正10年末から天正11年(1583年)にかけて、織田政権内で羽柴秀吉と柴田勝家の争いが本格化すると、元親は遅くとも天正11年正月までに、織田信孝を擁する勝家と手を結んだ[112][注釈 19]

この時期、伊予方面では、休戦状態にあった長宗我部氏と河野氏の対立が再燃し、河野氏が喜多郡に軍勢を出す事態にまで発展しており、長宗我部氏は河野氏との関係悪化によって、河野氏と姻戚関係にあった毛利氏との関係まで悪化しかねない事態に陥った[114]

4月21日、元親は讃岐の引田で、仙石秀久の軍勢を破った(引田の戦い[109]。だが、同日に勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、越前に敗走した[115]。その後、勝家は北ノ庄城で自害した。

5月、秀吉は元親を討つべく、軍勢を準備させている。5月13日付の秀吉の仙石秀久宛ての書状では、播磨・備前の軍を四国に向けるとしている。また、5月20日付の秀吉の石井与次兵衛尉宛ての書状では、水軍を大坂に集結させるよう命令している(『石井文書』)[116]

天正12年(1584年)3月から開始された小牧・長久手の戦いでは、 織田信雄徳川家康による広範囲による作戦計画から、元親は信雄や家康と結んで秀吉に対抗した[注釈 20]。また、信雄は元親に対し、輝元との仲介も依頼している[118]。信雄や家康との連携は、輝元との関係が微妙になりつつあった元親にとって、現状を打破するために有用なものであった[119]。そして、元親は四国を統一すべく、讃岐に兵を進めた[120]

6月11日、長宗我部勢が十河城を落とし、讃岐を平定した( 第二次十河城の戦い[121]。この勝利の報は信雄や家康にも伝えられ、信雄が香宗我部親泰に十河落城の喜びを伝えている[122]

8月、元親は家康から淡路・摂津・播磨に出兵するよう促されたが、四国の統一を優先したため、これに応じなかった[123][121][注釈 21]。とはいえ、元親の存在は信雄や家康にとって、秀吉の背後を脅かす存在として有用なものであった[125]。 

伊予の攻略・四国統一

毛利輝元

元親は伊予国において、新居郡の金子元宅と同盟していたほか、南予の伊予西園寺氏の領土に勢力を拡大しようとした。他方、喜多郡を巡っては、長宗我部方の国人と河野氏との間で争いが起きており、河野氏が毛利氏に救援を求めていた[125]。だが、毛利氏は芸土同盟の破綻を恐れて、この争いに介入しなかった[126][注釈 22]

9月11日、長宗我部勢は宇和郡の深田城を攻撃し、南予攻略を本格化させた[125][128]

10月、長宗我部勢は伊予西園寺氏の本拠・黒瀬城を攻撃し、陥落させた[129][125][注釈 23]。輝元はこの黒瀬城の陥落を警戒して[注釈 24]、河野氏に対し、児玉元良井上春忠らを使者として送っている[129]

11月、長宗我部勢は喜多郡延尾などを次々に攻略し、南予に勢力を拡大した[125]。これに対し、毛利氏も河野氏に援軍を派遣したため、長宗我部氏と毛利氏は交戦状態に入り、芸土同盟が完全に破綻した[125]

元親が輝元との同盟を破棄した背景には、喜多郡の長宗我部側の国人の存在があった[125][128]。河野氏の圧迫を受けた長宗我部側の国人は元親に助力を求め、元親も他国の国人勢力を味方にして領土を拡大してきた背景から支援せざるを得なかった[125]。他方、河野氏も長宗我部氏と直接争いたかったわけではなく、その軍事行動は以前から対立していた喜多郡への国人へのものであったが、結果として喜多郡を巡る争いが長宗我部氏と毛利氏の争いに繋がった[131]

同月、小牧・長久手の戦いが秀吉と信雄が和睦するという形で終結した[127]。これにより、元親は外交的に孤立状態となった[127]。 だが、元親は伊予の攻略を継続し、四国の統一を目指した[125]

天正13年(1585年)2月4日、長宗我部勢が喜多郡横松方面において、毛利勢に敗れた[125]

同年春、河野氏の当主・河野通直が降伏を申し入れ、伊予の諸領主も抵抗をやめたことにより、元親は四国を統一したとされる[132]。だが、河野氏が降伏したという話は『土佐物語』にしか記されておらず、一次史料からは河野氏が抵抗を続けていたとみられることから、「元親は四国を統一できておらず、その目前に迫った」とする見解が示されている[133][注釈 25]

秀吉の四国攻め・元親の降伏

天正13年1月、秀吉と毛利輝元が和睦を結び、国境を策定した(京芸和睦)。その際、毛利氏配下の備中・美作の国人らが秀吉との国境策定によって所領を失っており、彼らの給地のためにも新たな領土を手に入れる必要があったことから、輝元は長宗我部氏の領土に目をつけていた[135]

同月、秀吉の配下である蜂須賀正勝黒田孝高が小早川家臣の井上春忠に対し、夏に四国を攻めることや、伊予・土佐の両国を毛利氏に渡すこと、元親がそれについていろいろ願ってきているが受け入れないことを伝えている[136]。また、輝元も家臣の児玉元良に対し、「土佐と伊予を渡すと秀吉が言ってきた」と伝えている[136]

3月、秀吉が紀州征伐により、根来寺などを壊滅させ、紀伊を平定した[136]。このとき、元親は秀吉の鋭鋒をかわそうと使者を派遣して、進物を贈呈した[137]

4月、秀吉は輝元の叔父・小早川隆景に対し、近いうちに四国出兵を行う旨を伝えたという(『小早川文書』)[138]。だが、5月上旬に秀吉は「6月3日」に変更し、5月下旬には「6月16日」に変更している[136]。四国出兵の度重なる延期は、秀吉が体調を崩したというのが表向きの理由であったが、実際は元親と秀吉との間で交渉が続いていたからである[139]

両者の交渉において、元親は長男の信親を秀吉に「奉公」させ(事実上の人質である)[139]、三男の津野親忠も人質として差し出した[139][127]。そのうえで、元親は秀吉に対し、阿波・讃岐を割譲する代わりに、自身に土佐・伊予二国を秀吉から安堵されるよう申し出た[139][127]。秀吉もこの案に乗りかけたが、伊予を巡って元親と対立関係に転じていた毛利氏が同国の領有を目指して強硬な態度を示したため、毛利側の意向を重視してまとまらなかったという[140][141]。間もなく、人質に出していた信親と親忠が大坂から送り返され、交渉は完全に決裂した[142]

6月末、秀吉は元親討伐を決断[143]。弟の羽柴秀長を総大将とする軍を四国に派遣することを決定し、7月3日には秀吉自らも出陣することにしたが(四国攻め[139]、元親との和議を想定していた秀長から、「外聞」のため「遠慮」するよう押し留められ、実際に四国へ出向くことはなかった[144]。毛利氏は秀吉の決定を受け、小早川隆景が毛利氏の主力を率い、伊予に渡海することになった[145]

元親は秀吉方の攻撃に対し、阿波白地城を本拠に阿波・讃岐・伊予の海岸線沿いに防備を固め、抗戦した[注釈 26]。元親は出陣前に亡父・国親の墓前に詣でて、その覚悟を表明している[147]

秀吉は宇喜多秀家に検使・指図の役人として蜂須賀正勝・ 黒田孝高をつけ讃岐へ、小早川隆景・吉川元長率いる毛利勢を伊予へ、羽柴秀長・秀次の兵を阿波へと同時に派遣し、長宗我部方の城を相次いで攻略した。これに対し元親は軍勢の各個撃破を狙い、植田城に宇喜多ら讃岐方面軍を引きつけ、その背後を自らの軍勢より挟撃する策を立てる。しかし植田城の守りの堅さを見てとった孝高はこれを放置して阿波攻撃を優先することを主張したため、他の諸将も同意して阿波に入り、秀長軍と合流した。[148]この転身により元親の策は水泡に帰し、大勢と化した秀長・宇喜多軍に対し打つ手立てを失うことになった。

秀長はさらに、元親方となっていた一宮城 (阿波国)を守備していた谷忠澄江村親俊宛てに、5日間の休戦を提案した上で、土佐一国を安堵させるよう秀長自ら秀吉に掛け合うことを約束する起請文を、元親へ敢えて遜った姿勢の文体で送り、その後、一宮城を開城させた[149]。阿波の戦線が崩壊して白地城までの道が裸に晒されると、元親は反戦派の家臣である谷忠澄の言を容れて[注釈 27]、7月25日に降伏した[151]

その結果、元親は四国において、阿波・讃岐・伊予の三国を没収され、土佐一国のみを安堵された(四国国分[152][注釈 28]。かくして、秀吉が四国に出兵してからわずか一ヶ月で、元親が降伏する形によって戦いは決着した[152]

豊臣政権下

豊臣秀吉

天正13年閏8月、元親は阿波の新領主となった蜂須賀正勝に対し、「秀吉から許しを得られたのは正勝のおかげだ」と記した書状を出している[154][注釈 29]。このことから、元親が蜂須賀氏との関係を構築しようとしたことがうかがえる[154]

9月末(または10月初頭)、元親は土佐を出発し、上洛の途に就いた[158][注釈 30]。そして、元親は京都において、羽柴秀長の付き添いの元、彼の家来である幕下として秀吉に謁見した[159][158]。秀吉は元親とその家臣に座敷能を見せて饗応し、金子100枚を下賜している[158]。この面会は、元親の秀吉に対する服属儀礼の意味を有しており、恭順がより明確なものになった[160]

天正14年(1586年)正月、元親は大坂に赴き、秀吉に年頭の御礼を行った[161]。秀吉は元親を饗応したほか、自ら大坂城の天守に案内し、筒服・刀・脇差などを下賜している[161]

7月、元親は秀吉から九州出兵を命じられた[161]。元親は島津氏の圧迫に苦しむ大友氏の救援のため、嫡男の信親とともに出陣し、9月下旬に九州に上陸した(九州征伐[162]

12月、長宗我部勢や大友勢、仙石勢は戸次川の戦いで島津方の策にはまって大敗し、この戦いで信親が討死した[注釈 31]。元親は信親の死を知ると、自身も戦って討死しようとしたが、家臣の諌めにより、伊予の日振島に落ち延びた[164]

天正16年(1588年)、元親は本拠地を大高坂城へ移転した[注釈 32]。その後に起こった家督継承問題では、元親は次男の香川親和や三男の津野親忠ではなく、四男の盛親に家督を譲ることを決定した[注釈 33]。その際、反対派の家臣であり一門でもある比江山親興吉良親実などを相次いで切腹させている[注釈 34]

天正17年(1589年)頃、元親は秀吉から羽柴の名字を与えられ、「羽柴土佐侍従」を名乗る[169][170]

天正18年(1590年)の小田原征伐では、元親は長宗我部水軍を率いて参加し、後北条氏下田城を攻め、さらに小田原城包囲に参加した。

天正19年(1591年)1月、元親は浦戸湾に迷い込んだ体長9を数十隻の船団と100人余の人夫でもって大坂城内へ丸ごと持ち込み、秀吉や大坂の町人を大いに驚かせた。年末頃には、本拠を浦戸城へ移転する。通説では洪水の多い大高坂城((現高知城)を元親が嫌ったからとされているが、近年では浦戸城は朝鮮出兵に備えた軍事拠点として築かれたもので[171][172]、将来的には大高坂城跡を居城として整備する案もあったと指摘もされている[173]。 また朝鮮出兵がなくとも行政機構整備は行われたとする指摘もある[174]

文禄元年(1592年)3月、元親は盛親と共に、朝鮮出兵にも従軍した(文禄の役[175]豊臣政権は諸大名の石高に応じて軍役人数を課したが[176]、長宗我部の軍役は3,000人で固定され[177]、水軍としての軍事力を期待されていた[178]

5月、秀吉は朝鮮出兵が順調に進んでいたことから、大名らに中国や朝鮮に領地を与えようと言ったが、元親ら西国の大名らは断ったとされる[179]。豊臣政権奉行の山中長俊によると、元親や毛利輝元、大友義統島津義弘は日本での本領が替わることを迷惑だと言い、いつまでもそのままにしてほしいと望んでいたようである[180]

文禄2年(1593年)9月、元親・盛親父子は朝鮮より帰国した[179][181]。ただし、長宗我部氏自体は朝鮮に在番の軍勢を置くように命じられていたようである[182]

慶長元年(1596年)8月、元親はサン=フェリペ号事件に対処し、秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作った。この間、領内では検地を行い、慶長2年(1597年)3月に盛親と共に分国法である『長宗我部元親百箇条』を制定する。

慶長2年6月、元親は盛親と共に再び朝鮮に赴き、7月に釜山に上陸した(慶長の役[183]

慶長3年(1598年)5月、元親・盛親父子は朝鮮より帰国した[184]

8月18日、秀吉が死去すると、政情が不安定になった。元親は年末まで伏見屋敷に滞在し、11月26日に徳川家康の訪問を受けた[注釈 35]

最期

長宗我部盛親

慶長4年(1599年)3月、元親は三男の津野親忠を幽閉している[186]。だが、元親はその直後から体調を崩しだした[186]

4月、元親は病気療養のために上洛し、伏見屋敷に滞在した[186]。その後、同月23日には豊臣秀頼に謁見している[186]

5月に入ると、元親は重病となり、京都や大坂から名医が呼ばれるも快方には向かわなかった[187]。死期を悟った元親は、5月10日に盛親に遺言を残し、後事を託した(『桑名弥次兵衛一代手柄書附』)[188]

5月19日、元親は伏見の屋敷で死去した[189]享年61[189]

没後

没後、元親は高知県高知市長浜天甫山にあった天甫寺(廃寺)に葬られた[189]。法号は雪蹊恕三禅定門[189]

新たな国主として山内氏が入国した江戸時代になっても、菩提寺となった雪蹊寺では元親供養の法要が度々催され、寛政9年(1797年)には200年忌を記念して御影の表具が修理された。

明治時代になると廃仏毀釈の影響で、明治3年(1870年)に廃寺となるも、同年閏10月に元親の弟・親房の子孫と称する長宗我部弥九郎らの呼びかけで、元親を祭神とする泰神社が創建され、雪蹊寺に安置されていた木造座像や画像が移されて社宝となった[190]

昭和3年(1928年)11月10日、贈正三位

人物・評価・逸話

家督相続前

太平記英勇伝七十二:長曽我部宮内少輔元親(落合芳幾作)

幼少の頃は、長身だが色白で大人しく人に会っても挨拶も返事もせずにぼんやりしていたため、軟弱ともうつけ者とも評される性格から「姫若子」(ひめわこ)と揶揄されており、父の国親は跡継ぎとして悩んでいた[191]

初陣の長浜の戦いの際、家臣の秦泉寺豊後の使い方と大将の行動を聞いたという逸話がある[6]。 秦泉寺豊後は「槍は敵の目と鼻を突くようにし、大将は先に駆けず臆さずにいるもの」と答えた。そしていざ戦になると元親はその通りに行動し、敵兵を見事に突き崩し(『元親記』)、「鬼若子」と賞賛された[注釈 36]

四国制圧期の逸話

元親は土佐一国を統一する大名に成長し、土佐の出来人と呼ばれた(『長元物語』、『土佐物語』)[8]

土佐を統一した後、天正5年(1577年)、阿波の雲辺寺を訪れ、住職俊崇坊に四国統一の夢を語った。住職は「薬缶の蓋で水瓶の蓋をする様なものである」と元親に説いたが、元親は「我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。いずれは四国全土を覆う蓋となろう」と答えた(『長元物語』『土佐物語』『南海通記』)[192]

土佐統一を果たした年、37歳の若さで「雪蹊恕三(雪渓如三)」と法号を称している。「雪蹊」には徳のある人物には多くの人が自然に帰服してくる、そして「恕三」には広く大きな心で事に処せば、前途に万物が生じるという意味が込められているという[193]

家臣に「四国の覇者をなぜ目指すのか」と質問されると、「家臣に十分な恩賞を与え、家族が安全に暮らしていくには土佐だけでは不十分だから」と答えたとされる[194]。『土佐物語』では「我れ諸士に、賞禄を心の儘に行ひ、妻子をも安穏に扶持させんと思ひ、四方に発向して軍慮を廻らし」と元親が述懐したとしている。

讃岐国の羽床・鷲山で敵を兵糧攻めにした時、城付近の麦を刈る麦薙戦術を行ったが、全部刈り取っては領民が気の毒だと思い、一畦おきに刈取らせた[59]

同族の秦氏を租に持つ伊予国早川城主の秦備前守との親交が深かったとされている。天正の陣を終えた秦備前守は土佐国に逃れたとあり、秦備前守の家系図には長宗我部宮内小輔秦元親(長曽我部元親)と同姓となる長曽我部宮内小輔秦野備前守元宗との記述が残されてある。

豊臣政権下での逸話

豊臣秀吉に降伏し、羽柴秀長の家来として京都で秀吉と面会した際、ツキノワグマの毛皮を贈呈している[195]

豊臣秀吉が天下を統一した後、各地の大名を集めて舟遊びをした。その時秀吉から饅頭をもらった大名はその場で食べたが、元親は端をちぎって食べただけで紙に包んだ。それを見た秀吉から「その饅頭をどうするつもりか」と尋ねられると、「太閤殿下から頂いたありがたい饅頭ですので、持って帰り家来にも分け与えます」と答えた。秀吉は大いに気に入り、用意した饅頭を全て与えたという。

朝鮮出兵の際、泗川城朝鮮語版垣見一直に対し鉄砲狭間の高さの指導をした[注釈 37]

文禄の役の際、朝鮮方で9歳だった武家の子供を捕虜にし、土佐領内へ連れ帰った。子供は城武安右衛門と名を改め、香美郡夜須に移り住み、子孫は廻船業や漁業を生業とする豪商になったという[197]

京都の伏見屋敷に居住するようになった頃でも、秀吉の機嫌が悪いとお家取り潰しの危険性があり、日々、動向を怖れていた。そのため、屋敷を来訪する際は彼の機嫌が良い時であるよう祈願する文書が、清水寺に遺されている[198]

豊臣秀吉が伏見屋敷を訪問した際、元親の命令で屋敷の御成門が新調されたが、寸法を間違えて秀吉を乗せた御輿が入らず廃棄された。慶長元年4月27日、廃棄された御成門は土佐国雪蹊寺の本門に転用され、その荘厳さから見物客が絶えず、「日暮し門」と呼ばれたが、後に風雨で痛み、倒壊したという[199]

阿波侵攻の際に協力関係となった日和佐氏が、蜂須賀氏の阿波進駐により、大阪で浪人生活を送っていることを知ると、慶長元年(1596年)に土佐へ招き、香美郡赤岡に来住させた。日和佐氏は名を浜五郎兵衛と改め、長宗我部氏改易後に山内氏が入国した際は、農民の還住や一領具足の一揆残党の取り鎮めなどに尽力して信任を得、酒造株の取得や隣郷の岸本塩田の再開発を行った。そして後に庄屋職を務めるなど、赤岡を在郷町として発展させた[200]

その他の逸話

家来に対して、「一芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず」と言っていたとされる。

土佐領内で禁酒令を出していたにもかかわらず、自分自身が酒を城内へ運び込ませていたことがあった。これを福留儀重に厳しく諌められて、以後改心したという[201]

山崎の戦いの後、斎藤利三の娘である福(後の春日局)を岡豊城でかくまったとされる[202]

岡豊城に居城していた天正16年(1588年)の正月、家臣だった久万兵庫が妻を伴って出仕した際に、舂米(玄米)5升を献上し、元親は「籾なくして良き程に之を飯に焚き、互いに祝うべし」と発言したとされるが、これは当時、城主から民衆に至るまで、精米された白米を食べる習慣がなく、白米を食べるようになるのは山内一豊が土佐に入国した以降の時代になるという[203]

兵糧調達の際、播磨国飾磨(兵庫県姫路市)出身の高島宗徳という人物に調達を依頼したが、宗徳はこれをきっかけに土佐へ移り、播磨屋と号する商人となった。長宗我部家の改易で山内氏が土佐に入国すると、高島家は豪商として城下町を拠点に町年寄も務め、後に櫃屋と共同で播磨屋橋を建設した[204]

性格

後継者として期待していた信親が戦死した後、英雄としての覇気を一気に失い、家督相続では末子の盛親の後継を強行し、反対する家臣は一族だろうと皆殺しにするなど信親没後の元親は久武親直の讒言があったとしても片意地になり、それまでの度量を失っていた[201]戸次川の戦いで信親が戦死したことを知り、自分も死のうと思ったが家来に諌められている[205]。その後、秀吉から大隅国を加増するとの話があったがこれを固辞している[注釈 38]

『土佐物語』などの信憑性はともかく、信親が死んで変貌する前までの元親には家臣の諫言や意見には広く聞き入れる度量があった。阿波の勝瑞城攻略においては上級家臣の意見より下級の一領具足の意見を聞き入れたという[201]。また情け深く、妹婿の波川清宗が元親に謀反を起こして討たれたとき、弟の次郎兵衛や五郎大夫は助命した。だが2人は兄の仇を討つため岡豊から出奔したので、家臣は2人を追討しようとしたが、元親は許さなかった[207][注釈 39]

阿波白地城主の大西覚養三好氏に寝返ったときも、人質としてあった甥の上野介を殺さずに優遇したり[207]三好康長の子・康俊が父の誘いを受けて寝返ったときも、人質として岡豊にあった康俊の子を殺さずに丁重に送り返して康長に感謝されたりしている[注釈 40]。 だが信親没後は性格が一変、先に述べた2人の親族の他に、高岡郡の仁井田5人衆の1人である志和勘助が使者として阿波の蜂須賀家政と会見したとき、家政は勘助の人物を気に入って召抱えようとしたが、勘助は元親への忠義を理由に断った。ところがこれを漏れ聞いた元親は申し開きも聞かずに寝返ったとして直ちに勘助と一族を討伐するという行動を起こしたりした[208]

『元親記』では「律儀第一の人」「慇懃の人」と評され、その他の軍記物でも武勇に優れ仁慈に厚い名君と評している[209][注釈 41]。 ただし、阿波(徳島県)の細川氏の史書である『細川三好君臣阿波軍記』では不仁不義の悪人と評している[注釈 42]

政治

寺院の保護に積極的で、『百箇条』の中でも「諸宗其の道々専ら相嗜まるべきこと」とある。ただし、僧侶に対する規制は厳しく、生活態度が悪い僧侶に対しては『百箇条』において流罪・死罪にするとしている[211]

元親は儒学に特に関心を寄せていたが、他の文学に関しても大いに奨励し、文化上優れた功績を挙げれば恩賞を与えることを約束していた[212]

戦国期の武家は家名の存続を重視したが、元親は武士が罪科のために処罰されても重罪の場合を除いては家名存続やその後の影響に一切の支障は無いことを保障した。また殺人・口論など家中の統制を乱す者は喧嘩両成敗とし、強盗や山賊・海賊には厳罰を処してそれらを在所の庄屋などが逮捕できない場合は連帯して責任を負わせることにした。賭博は禁止し、犯罪者隠匿の場合も連座で処罰し、国家反逆罪から悪口・流言蜚語にまで刑罰を定めるなど、厳罰主義による秩序の維持に努めた。寺院の特権も廃止し、犯罪者が寺院に逃げ込んだりした場合でも逮捕が可能であるとしている[213]

土佐は豪族が多かったため、城割など城下町建設は不徹底に終わっている。それでも元親は居城を浦戸から大高坂に移して中央集権化に努力している。なお、元親は商工者の城下町集約と市場町建設にはかなり積極的に行なっているが、これらも城下の地形や広狭の問題から不徹底に終わった[214]

年貢に関しては二公一民と厳しく、隠田が発覚した場合には『百箇条』において倍の年貢を取り、あるいは斬首にするとしている。また、百姓の逃散には厳しい取締りを設けた。そのため、『清良記』では百姓の逃亡も少なくなかったという[215]

商業・産業政策では御用商人に大幅な特権を与える見返りに戦時の軍費を獲得した。土佐は資源に乏しいため大規模な鉱業・工業は発展できなかったが、職人の育成に積極的に努めて慶長期にはそれまでは他国から売買を求めていた鉄砲を自国で生産できるまでにしている。ただし、密造・密輸(鉄砲・馬など)には『百箇条』で死刑にするとしている。土佐は木材が豊富だったことから、かなり細則に及ぶ規律が定められた[216]

税制に関しては前述したように年貢が厳しかったが、それ以外の課税として漁業のときに使うかつら網などにかかるかつら銭、塩浜税、十分一(船舶・積荷の税)などがあった[217]

城下町と支城、生産地を結ぶという目的から、元親は交通路の整備に積極的だった。天正年間に一里塚を築き、信親存命の間は道に損傷があったときなどは直ちに上の判断で往来の者に累が及ばないように配慮していた。だが、信親没後は道路の損傷は在地の庄屋と百姓に責任を負わせ、悪路のある場合は罰金を徴収するなどした。国内旅行に関してはかなり自由で、宿泊費もその人の志次第としているものの、本道以外を通行すれば罰金とし、定飛脚などは急用の場合に時間までに着けなかったら死罪にするとしている。他国への往来はかなり厳格だったという[218]

宗教

元親は土佐一条氏に臣従していた時代に寺社奉行であった関係からか、熱心に寺社復興を行っており、四国統一戦の最中にも讃岐国の寺院を復興させるなど、手厚く僧侶を保護しており、谷忠澄や非有など神官・僧侶出身の者が家臣に抜擢される例も多かった。特に非有は元親の信頼を得て、出頭人として領国支配に広範な権限を行使した[219]

元親は金毘羅大権現を祀る金毘羅堂を擁す讃岐の真言宗象頭山松尾寺を重要視して、土佐から宥厳を迎えて院主に据え、仁王堂(現在は賢木門)を建立するなど寄進をした。

有名な江戸時代末期の民謡金毘羅船々』の歌詞には「金毘羅信仰忘れちゃいけない シュラシュシュシュ 長宗我部元親 神罰恐れて 逆さに建てたる賢木門」という一節があり、意外な形で元親の事跡を後世に伝えている。

家臣

元親は吉良氏津野氏香川氏香宗我部氏などに弟や息子を養子入りさせて一門の勢力を拡張し、それらが本家を補佐する体制をとっていたが、実弟の吉良親貞が早世して信親も戦死するなど不幸もあって有力一門が欠けると、一門は官僚的家臣団の一員として取り込まれてしまい結果的に信親没後の内紛を引き起こして主導的役割に立つべきだった一門がリードできなかったという難点がある。関ヶ原では香宗我部親泰までもが既に亡く、一門補佐制が形骸化していた[220]

久武親直は元親から盛親にかけて権勢を振るったが、これは久武が桑名・中内と並ぶ三家老の一だったためである。他に江村・比江山・谷など諸氏も臨時的に家老に列せられることもあった[221]

妻子に関して

元親の正室は美濃斎藤氏の縁者の娘(元親夫人)で、永禄6年(1563年)に結婚している。もっとも、家臣らは遠国の美濃から迎えずとも四国の有力者から迎えるべきと薦めた。元親は「天神地祇にかけて、全く彼の息女が容色の沙汰を聞及びたるにあらず、色は兎もあれ角もあれ、祖父伊予守・父豊後守武名香ばしき士なれば、彼腹に出生の子、父祖にあやかる事あらんと思ふ計なり」(『土佐物語』)と答えて、武勇の血を引く彼女の系譜を重んじたという[222]。この正室は明智光秀の重臣・斎藤利三の異父妹で、正確には石谷光政室町幕府奉公衆)の娘ということになる。また、利三の生母は明智光秀の叔母とされていることから、のちにこの関係を通じて光秀、そして信長と関係を持つに至った。夫人に関する史料は乏しいためどのような女性だったかは不明であるが、長男の信親から四男の盛親までの4人の男児、長女の一条内政正室から四女の吉松十右衛門正室までの4男4女までを授かっていることから、夫婦仲は良好だったと思われる。

側室に小少将[注釈 4]がおり、彼女との間に五男の右近大夫が生まれたという[224]。また小宰相という側室との間に1男1女が生まれたといわれるが[224]、小宰相は側室でなく娘の名であるともされる[225]

三女の阿古姫大坂の陣の際に伊達政宗に捕えられたが助命され、二人の息子と共に仙台藩に仕えた。息子たちはそれぞれ重臣の家に養子入りし(五十嵐元成柴田朝意)、仙台において元親の血をつないだ。このため、阿古姫母子を頼って仙台へ行った長宗我部ゆかりの人々もおり、香宗我部親泰の子・貞親の養子・重親が仙台藩に召し抱えられたほか、吉松氏女(母は元親の四女)が従兄弟の朝意の継室となっている。

また、大和国吉野郡の西蓮寺(奈良県吉野郡吉野町大字山口[226])を創建した鉄牛(文誉鉄牛[227])は俗名を長宗我部文親といい[226][228]、元親の六男であると伝えられる[228]。鉄牛は同じく吉野郡にある如意輪寺(吉野町大字吉野山)を中興している[226][227]。文親は、夏の陣の敗戦後、盛親の子である次男・盛高(右衛門二郎)と四男・盛定(右衛門四郎)を連れて徳川氏の追跡を逃れ、如意輪寺再興後に吉野 の喜佐谷村で豊田氏を興したという。文親は豊田氏の家督を盛高に譲り、盛定は出家して如意輪寺の二代目住職となった。盛高は、自分の長女を「文」と名づけ、文を文親の子・義太郎に娶らせ家督を譲り、明治に入るまで豊田家は代々喜佐谷に住んだとされる[229]。これが事実であれば、夏の陣後の徳川方の残党狩りを逃れた元親の血筋の人物が存在したということになる。

同時代の評価

甲陽軍鑑』には、徳川家康赤井直正らと共に「名高キ武士」として、元親の名が挙がっている。

他方、織田信長は元親をあまり高く評価しておらず、慣用句から、「あれは鳥無き島の蝙蝠」と揶揄したと伝えられている(『土佐物語』)[230]。もっとも、戦国時代を大きく過ぎた18世紀に成立し、鬼や大蛇なども登場する同書の史実性は低いと考えられており、発言の信憑性の程は定かでない。

史料

その他

  • NHKBS熱中夜話」で、戦国武将の回で行われた「大河ドラマで主役をやってほしい戦国武将」と題したアンケートで第1位に選ばれた。

墓所・銅像

伝長宗我部元親の墓
墓石

高知県高知市長浜天甫寺山北緯33度29分50.238秒 東経133度33分10.618秒、南斜面の石段を上がった鬱蒼とした石垣の上にある。

没後400年を記念して平成11年(1999年)に「長宗我部元親初陣の像」が高知市長浜の若宮八幡宮に建立された[232]。台座を含めて約7m、槍の長さ5.7m。

また、戦国大戦戦国絵札遊戯 不如帰 -HOTOTOGISU- 乱などを手掛けたイラストレーターによるイメージ画を元にした元親の銅像を高知県立歴史民俗資料館南国市岡豊町)に建立することとなり[233][234]2015年5月3日に除幕式が執り行われた[235][236]

系譜

家臣

長宗我部元親を主題とする作品

小説
漫画
舞台
アニメ
パチンコ
テレビ番組

長宗我部元親が登場する作品

テレビドラマ
漫画
アニメ
ゲーム

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI