三宮義胤
日本の外交官 (1844-1905)
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生涯
近江国志賀郡真野浜村(現:滋賀県大津市)に、真宗正源寺住職・三上円海の長男として生まれる[2]。
幕末の動乱期には尊王攘夷派活動家(志士)として国事に奔走[1][2]。岩倉具視らと交流を持ち王政復古運動に参加した[2][1]。慶応3年(1867年)には高野山で挙兵[2]。戊辰戦争では各地に転戦し[2]、功績があった[3]。明治2年(1869年)には賞典禄として50石が与えられた[2]。
兵部省に勤務したのち、明治3年(1870年)には東伏見宮彰仁親王(のちの小松宮)の英国留学に随行する[2]。明治10年(1877年)、外務省に移って駐ドイツ日本公使館に勤務し、明治13年(1880年)に帰国した[2]。
明治16年(1883年)宮内省に転じ、要職を歴任。明治17年(1884年)小松宮彰仁親王の随行として渡欧した際に妻と知り合い結婚(後述)[4]。明治28年(1889年)に式部長に昇る[2]。日清戦争で大本営附となったことが功とされ、1896年(明治29年)6月に男爵を授けられた[3]。
官歴等
栄典
- 位階
- 1884年(明治17年)6月30日 - 正六位[19]
- 1885年(明治18年)9月16日 - 従五位[20]
- 1886年(明治19年)
- 1891年(明治24年)12月16日 - 正四位[23]
- 1896年(明治29年)12月21日 - 従三位[24]
- 1904年(明治37年)7月30日 - 正三位[25]
- 1905年(明治38年)8月12日 - 従二位[26]
- 勲章等
- 1882年(明治15年)12月29日 - 勲五等双光旭日章
- 1888年(明治21年)5月29日 - 勲三等旭日中綬章[27]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[28]
- 1895年(明治28年)
- 1890年(明治23年)5月22日 - 日本赤十字社特別社員章[32]
- 1896年(明治29年)6月5日 - 男爵[33]
- 1903年(明治36年)12月26日 - 旭日大綬章[34]
- 外国勲章佩用允許
- 1885年(明治18年)
- 2月17日 - メクレンブルク=シュヴェリーン大公国:クライフェン勲章コントエアクロイツ
- 5月25日 – スウェーデン=ノルウェー連合王国:ワァーサ第二等乙級勲章[35]
- 1887年(明治20年)12月9日
- 1892年(明治25年)7月26日 - ハワイ王国:王冠第一等勲章[38]
- 1893年(明治26年)
- 1894年(明治27年)8月8日 - タイ王国:第一等タイ王冠勲章[41]
- 1895年(明治28年)
- 2月12日 - バイエルン王国:ハイリケミツパエル第一等勲章[42]
- 8月17日 - メクレンブルク=シュヴェリーン大公国:グライフェン第一等勲章[43]
- 1902年(明治35年)
- 1905年(明治38年)3月22日 - 大韓帝国:勲一等大極大綬章[46]
家族・親族
妻は、英国キングストン・アポン・ハルの生地商ウィリアム・レイノア(William Raynor)の娘、アレシーア(Alethea Raynor, 1846 - 1919)で[47][48]、日本名を八重野と称した[3]。アーネスト・サトウは、アレシアを下宿屋の娘としている[47]。1874年にロンドンのハムステッドの教会で蜂須賀茂韶や岩倉具経を立会人に結婚し、1880年に夫に伴い来日[49]。日本では、皇族の妃や華族の女性たちに、西洋の服装や社交上の慣習を助言する役割を果たした[50]。
養子として桂秀馬の二男・錫馬を迎え、義胤の死後は錫馬が家督を継いだ[3]。1919年(大正8年)に錫馬が没すると、錫馬の妹の絲(いと)が戸主となったが、女戸主のために1920年(大正9年)に爵位を返上した[3]。なお、絲はそののち古市公威の六男・周六を婿に迎えている[3]。周六は慈恵医科大学を卒業し医師となり、神田駿河台の瀬川小児科病院の瀬川昌世のもとで診療に当たった。



