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蜂須賀茂韶

日本の政治家 From Wikipedia, the free encyclopedia

蜂須賀 茂韶(はちすか もちあき)は、江戸時代末期大名明治大正時代の華族阿波国徳島藩第14代(最後)の藩主。文部大臣東京府知事貴族院議長を歴任した。号は誠堂、霰笠[2]。徳川家斉の孫。

時代 江戸時代後期 - 大正時代
死没 大正7年(1918年2月10日
改名 氏太郎、茂韶
概要 凡例蜂須賀 茂韶, 時代 ...
 
蜂須賀 茂韶
蜂須賀茂韶
時代 江戸時代後期 - 大正時代
生誕 弘化3年8月8日1846年9月28日
死没 大正7年(1918年2月10日
改名 氏太郎、茂韶
戒名 大源院殿
墓所 徳島県徳島市佐古山町万年山墓所
官位 従四位上阿波守侍従侯爵勲一等
主君 明治天皇
阿波国徳島藩
氏族 蜂須賀氏
父母 父:蜂須賀斉裕、母:たま(山本氏)
兄弟 茂韶賀代姫
斐姫蜂須賀隆芳の娘)
蜂須賀随子徳川慶篤の長女)
正韶
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生年月日 1846年9月28日
没年月日 (1918-02-10) 1918年2月10日(71歳没)
死没地 大日本帝国の旗 日本東京府東京市芝区三田綱町(現:東京都港区三田二丁目)
概要 生年月日, 出生地 ...
蜂須賀 茂韶
はちすか もちあき
生年月日 1846年9月28日
出生地 江戸幕府武蔵国豊島郡江戸大名小路徳島藩上屋敷(現:東京都千代田区丸の内
没年月日 (1918-02-10) 1918年2月10日(71歳没)
死没地 大日本帝国の旗 日本東京府東京市芝区三田綱町(現:東京都港区三田二丁目)
出身校 オックスフォード大学卒業
称号 従一位
勲一等旭日桐花大綬章
侯爵
配偶者 斐姫
蜂須賀随子
子女 蜂須賀正韶(長男)
親族 徳川篤敬(義弟)
蜂須賀正氏(孫)
松平康民(従弟)
大日本帝国の旗 第8代 文部大臣
内閣 第2次松方内閣
在任期間 1896年9月28日 - 1897年11月6日
在任期間 1891年7月21日 - 1896年10月3日
天皇 明治天皇
在任期間 1897年11月6日 - 1918年2月10日
在任期間 1890年2月 - 1918年2月11日[1]
在任期間 1888年6月7日 - 1890年5月19日
その他の職歴
第11代 東京府知事
東京市長

(1890年5月19日 - 1891年7月21日)
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万年山墓所の茂韶夫妻と正氏の墓(徳島県徳島市眉山町)

経歴

第13代藩主・蜂須賀斉裕(第11代将軍・徳川家斉の二十二男)の次男。母は山本氏の娘、たま。幼名は氏太郎。

従兄弟で第14代将軍の徳川家茂より偏諱を授かり茂韶と名乗る。慶応4年(1868年)1月6日の父の急死により家督を継ぐ。斉裕の危篤から死去が鳥羽・伏見の戦いの最中であったことから、藩内は大混乱をきたした。その後の戊辰戦争では新政府側に与して奥羽にも兵を送ったが、相次ぐ藩内の混乱のため、新式のイギリス軍備を導入していたにもかかわらず少数の藩兵しか送れず、諸藩からの冷評を受けたと言われている。

明治維新後はオックスフォード大学に留学した。明治15年(1882年)から同19年(1886年)まで駐フランス公使スペインベルギースイスポルトガル公使も兼務)。

1884年(明治17年)、侯爵となる[3]

第11代東京府知事(1890年 - 1891年)、文部大臣などを務め、麝香間祗候の待遇を受ける。

1891年(明治24年)7月21日、貴族院議長となり、1896年(明治29年)10月3日まで務めた[3]

この間、渋沢栄一と企業を設立。渋沢が経営を担当し、蜂須賀茂韶は資金を調達した。

1879年(明治12年)8月に東京海上保険(東京海上日動火災保険)を創立。茂韶が初代社長で渋沢と三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が相談役を務めた。

ジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTB)の前身「貴賓会」は1892(明治25)年、茂韶、渋沢、三井物産社長の益田孝らが発起人となり創立。茂韶が会長、渋沢が幹事長となった。

日本鉄道株式会社(JR東日本)や大阪紡績株式会社(東洋紡)、東京人造肥料株式会社(日産化学)なども創立に関わった。

藩祖・蜂須賀正勝を大名に引き立てたのは豊臣秀吉であった縁から、旧福岡藩主家当主黒田長成(藩祖黒田孝高を大名に引き立てたのはやはり秀吉である)を会長として結成された豊国会の副会長を務め、豊国会が京都東山豊国神社に豊臣秀吉廟を建立した折には、黒田とともに燈籠を寄進している。

芝区三田綱町の蜂須賀家所有地の一部は慶應義塾に売却されて綱町グラウンドとなり、明治36年(1903年)11月21日に第1回早慶戦が行われた[4]

1918年2月10日、風邪気味で自邸で静養中のところ、気管を冒され、心臓麻痺で死去した[5]。享年73。

法号は大源院殿。墓所は徳島市万年山

年譜

栄典

位階
爵位
勲章等
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外国勲章佩用允許
さらに見る 受章年, 国籍 ...
受章年 国籍 略綬 勲章名 備考
1881年(明治14年)6月14日 ドイツの旗 ドイツ帝国 王冠第二等勲章英語版[8]
1881年(明治14年)7月16日 ハワイ王国 カラカウア勲章英語版ナイトグランドオフィサー[8]
1884年(明治17年)3月11日 スペイン スペイン王国 イサベル・ラ・カトリカ第一等勲章英語版[8][19]
1887年(明治20年)10月19日 ポルトガル王国の旗 ポルトガル王国 ヴィラ・ヴィソーザ無原罪の聖母騎士団勲章グランクロワ[8]
1888年(明治21年)3月24日 フランス第三共和政 フランス共和国 レジオンドヌール勲章グラントフィシエ[8]
1888年(明治21年)9月11日 ベルギー ベルギー王国 レオポルド勲章英語版グランコルドン[8]
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賞杯等

系譜

蜂須賀農場

茂韶が1893年(明治26年)に開設した。深川・雨竜・秩父別・新十津川にまたがる大規模な小作制農場で、莫大な利益を蜂須賀家にもたらしたが、茂韶の死後、1921年(大正10年)から10年余りにわたり小作争議が争われ、跡を継いだ正韶らを疲弊させた。

盗賊伝説について

司馬遼太郎街道をゆく43 濃尾参州記』に、以下の記述がある。

茂韶が宮中に参内して応接室で待たされたとき、ふと卓上にあった紙巻タバコを1本失敬したところ、やってこられた明治天皇がそれに気づかれ、諧謔をもって「蜂須賀、先祖は争えんのう」と嬉しそうに茂韶をながめられたという。これは明治天皇が『太閤記』の記述に基づき阿波の徳島藩主蜂須賀氏の初代蜂須賀正勝盗賊あがり(土豪あがり)だと思っていたためだろう。これがきっかけとなり、蜂須賀家では歴史学者の渡辺世祐に依頼して、正勝が盗賊ではないことを立証してもらったという。

また、司馬の著書に先立つ河盛好蔵『人とつき合う法』には、名前は伏せてあるが(H侯爵家となっているが、武家の侯爵家でイニシャルがHになるのは他に細川家しかない)、明らかに蜂須賀家を指して、先祖が夜盗として有名であったが、何とか先祖の汚名をそそぎたく、夜盗ではなかったと立証してもらいたいと、喜田貞吉に依頼したという記述がある。しかし喜田は調査の結果、「H侯爵家の先祖はたしかに夜盗であった。しかし夜盗というものは、その時代には決して恥ずべき職業ではなかった、ということなら、歴史的に証明してみせます」と回答したため、それでは困ると沙汰やみになったという。

ただ、茂韶の父斉裕が11代将軍家斉皆春院の間に生まれた子なので、茂韶に蜂須賀正勝の血は流れていない。また、明治天皇の祖父・仁孝天皇の生母・東京極院の母は池田仲庸の娘であり、池田仲庸の曽祖父池田光仲の母は蜂須賀至鎮(正勝の孫)の娘・三保姫であるため、明治天皇と正勝の間にも系譜上のつながりがある(実際は勧修寺婧子数計子に血のつながりがあるかは不明)。

蜂須賀正勝家政至鎮三保姫池田光仲仲澄仲央仲庸数計子=勧修寺婧子仁孝天皇孝明天皇明治天皇

関連項目

事柄

人物

脚注

参考文献

外部リンク

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