戸田氏共

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生年月日 1854年7月23日嘉永7年6月29日
没年月日 (1936-02-17) 1936年2月17日(81歳没)[1]
前職 大垣藩
戸田氏共
とだ うじたか
戸田氏共(『華族画報』より)
生年月日 1854年7月23日嘉永7年6月29日
没年月日 (1936-02-17) 1936年2月17日(81歳没)[1]
前職 大垣藩
称号 従一位
勲一等旭日桐花大綬章
伯爵
配偶者 極子岩倉具視の三女)[1]
子女 実子:孝子(細川護成夫人)、米子(戸田氏秀夫人)、幸子(松平直平夫人)、富子(戸田氏秀夫人)
養子:氏秀[1]

在任期間 1908年(明治41年)1月 - 1921年(大正10年)10月

在任期間 1887年(明治20年)6月 - 1890年(明治23年)

在任期間 1869年7月24日(明治2年6月16日) - 1871年8月29日(明治4年7月14日)[2]
天皇 明治天皇
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戸田 氏共(とだ うじたか)は、江戸時代末期(幕末)の大名明治から昭和期の華族外交官宮内省官僚位階勲等爵位従一位勲一等伯爵

大垣戸田家の12代目の当主で、美濃国大垣藩第11代(最後)藩主、同藩初代(最後)藩知事。オーストリア=ハンガリー全権公使、式部長官などを歴任した[1]

旧暦嘉永7年6月29日(1854年7月23日)、第9代藩主戸田氏正の五男として生まれる。慶応元年7月27日(1865年)、長兄の第10代藩主氏彬の病死により、その末期養子として家督を継いだ。翌年6月24日に、従五位下采女正に叙任する[2]

慶応4年1月10日(1868年)、鳥羽・伏見の戦い徳川慶喜に与したことにより、新政府から朝敵として入洛禁止を命じられた。そうした状況のなか、家老の小原鉄心が藩論を勤王・恭順にまとめ上げた。同年1月16日、氏共は直ちに上洛して政府に謝罪し、官軍の東山道鎮撫使の先鋒役を務めることになった。これにより4月15日に正式に朝敵から除外された。会津征伐では会津若松城に攻め込む戦功を挙げた[3]。その功績により明治2年(1869年)には3万石の賞典禄を下賜された[4]

明治2年6月16日(1869年)、大垣藩知事に就任する[2]。明治3年10月19日(1870年)、大学南校への入学を願う。明治4年2月(1871年)、アメリカ留学のために知藩事職を辞任する。同年4月4日に横浜港を出発し、弟氏益らも同行した。

版籍奉還の際に定められた家禄は現米で5032石[5]新暦1876年(明治9年)の金禄公債証書発行条例に基づき家禄および賞典禄(実額7500石)の合計1万2532石と引き換えに支給された金禄公債の額は22万9219円28銭4厘(華族受給者中29位)[6]

帰国後の1879年(明治12年)10月に文部省御用掛を命じられた。1882年(明治15年)伊藤博文に随って欧州へ。1884年(明治17年)、伯爵を授けられる。1886年(明治19年)3月に公使館参事官、1887年(明治20年)5月に弁理公使と累進し、同年6月にオーストリア=ハンガリー全権公使となった。さらに、1892年(明治25年)に宮内省の狩猟官、1897年(明治30年)に諸陵頭兼主猟官、1898年(明治31年)に式部官兼狩猟官、1900年(明治33年)5月に宮中顧問官、1905年(明治38年)9月に式部長、1908年(明治41年)1月に式部長官となった。1907年(明治40年)11月、勲一等瑞宝章受章。1921年(大正10年)10月、式部長官を退任する。1928年(昭和3年)2月1日、麝香間祗候を仰せ付けられた[7]

その後、病に伏せるとお尋ねとして天皇・皇后・皇太后より葡萄酒を賜った。1936年(昭和11年)2月17日死去。死去に際し、天皇・皇后・皇太后より祭資が下賜された。また、同月21日の葬送の際には勅使が戸田邸を訪問。幣帛、供物、花を賜った[8]。 旧大名の中でも長寿の83歳であった。墓所は東京都文京区向丘蓮光寺。戒名は慶徳院殿。戸田一西以降の歴代当主とともに大垣の常葉神社において祭神として祀られている。婿養子の氏秀大河内輝声の四男)は早世していたため、外孫の氏忠(氏秀の四男)が家督を継いだ。

栄典

戸田伯爵家の岐阜本邸
位階
勲章等
外国勲章佩用允許

家族

関連項目

参考文献

脚注

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