三之助

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三之助 (さんのすけ)とは、若手歌舞伎役者の市川新之助尾上菊之助尾上辰之助の三人の通称。

称された歌舞伎俳優

六代目市川新之助(のちの十二代目市川團十郎
1946年(昭和21年)生まれ。1958年(昭和33年)5月から1969年(昭和44年)10月まで新之助を名乗る。
四代目尾上菊之助(現・七代目尾上菊五郎
1942年(昭和17年)生まれ。1965年(昭和40年)5月から1973年(昭和48年)9月まで菊之助を名乗る。
初代尾上辰之助
1946年(昭和21年)生まれ。1965年(昭和40年)5月から1987年(昭和62年)3月28日に死去するまで辰之助を名乗る。

概要

昭和40年代、六代目市川新之助(のちの十二代目市川團十郎)、四代目尾上菊之助(現・七代目尾上菊五郎)、初代尾上辰之助(死後、三代目尾上松緑を追贈)の三人をこう呼んだ。この三人が特にこう呼ばれたのは、

  1. 若手の役者
  2. 名前にいずれも「之助」がつく
  3. 1940年代生まれで、ほぼ同年代
  4. それぞれの父が菊五郎劇団ゆかりの大立者(十一代目市川團十郎七代目尾上梅幸二代目尾上松緑、ただし團十郎は菊五郎劇団には属さず、客分として多く出演していた)
  5. 互いに特に親しい友人同士であった

こともある。なお新之助と辰之助は父が兄弟(長兄と末弟)であるために従兄弟にあたる。

加えて三之助は、明るく大らかな新之助、二枚目で瀟洒な菊之助、男くさく向う気の強い辰之助というキャラクターの取合せがよく、また歌舞伎の舞台でも、荒事・二枚目役が新之助、女形が菊之助(後に立役を兼ねるようになり、現在ではこちらが主)、世話物や踊りが辰之助とそれぞれ性格の異った役者であったために、自然と競演の機会も多く、これらが人気を高めるのに役立った。『週刊平凡』1966年9月1日号では「御曹司トリオの素顔を比較すると 人気は菊之助 男らしさは辰之助 美貌は新之助」の見出しでそれぞれの魅力を評した。

この三之助にはさまざまなゴシップがつきまとったが、有名なのは喧嘩売りの噂。京都の裏路地を三人で歩いていると、向こうからやってくる相手に菊之助がまず喧嘩を売り、次に辰之助が一発くらわせて逃げ、最後に逃げ遅れた新之助が殴り返される、というもの。真偽のほどは定かではないが、いかにも三人の性格をよく捉えた話である。

ブームは1965年(昭和40年)5月の菊之助・辰之助同時襲名ごろからが興りはじめ、同年11月10日に新之助の父・十一代目市川團十郎の急死によって後盾を失った新之助を、菊之助と辰之助が支える姿に同情が寄せられたこともあって、「三之助」という言いまわしとその人気は不動のものとなった。このブームは単に一部の好劇家にとどまらず、若い世代の女性に歌舞伎役者のファン層が伸び、しきりに危機が叫ばれていた昭和歌舞伎が息を吹き返し興行界に確固たる地位を占めるに至った経過に一役買った点からも非常に重要である。

演劇誌では『テアトロ』1966年4月号に「新之助・菊之助・辰之助の持っている片鱗」のタイトルで三人を評し、『アサヒグラフ』1966年4月8日号では「菊・辰・新 三之助売出す」のコピーと共に三人の写真が表紙を飾った。歌舞伎専門誌の『演劇界』では、1967年11月号に「三之助大活躍」、1968年3月号に「三之助のわかわかしさ」とその活躍ぶりが記され、1983年7月号では「三之助のころ」と当時を回顧する記事が掲載されている。芸能誌の『週刊明星』でも、1966年5月1日号、1966年9月18日号、そして1969年2月23日号でそれぞれ三人が掲載されている(なお三人の掲載順はすべて異なる)。また女性誌では『主婦と生活』1967年3月号に「新春歌舞伎三之助勢揃い」の記事が確認できる。

ブームの最中、菊之助は1966年(昭和41年)に『源義経』で大河ドラマ主演、翌1967年(昭和42年)に『桃太郎侍』で民放ドラマ主演と『佐々木小次郎』での映画主演を果たし、映像でも活躍した。

1969年(昭和44年)に新之助が十代目市川海老蔵を襲名し、1973年(昭和48年)に菊之助が七代目尾上菊五郎を襲名したことにより「三之助」は自然解消となった。また1987年(昭和62年)に辰之助が40歳の若さで急死してからは半ば伝説的な存在になりつつあったが、平成に入ってそれぞれの息子によって「三之助」が復活した(後述)。

なお、このブームを「初代三之助」とし、その期間を1965年~1969年の間と明確にして報じた例もある[1]

平成の三之助(新・三之助)

脚注

関連項目

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