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三好幸信

江戸時代前期の武士 From Wikipedia, the free encyclopedia

三好 幸信(みよし ゆきのぶ)は、江戸時代前期の武士。出羽亀田藩士。真田信繁(幸村)の三男。

時代 江戸時代前期
改名 左次郎(幼名)、三好幸信
概要 凡例三好幸信, 時代 ...
 
三好幸信
時代 江戸時代前期
生誕 元和元年7月14日(1615年9月6日)
死没 寛文7年6月23日(1667年8月12日)[1]
改名 左次郎(幼名)、三好幸信
別名 通称:左馬之介
墓所 顕性山妙慶寺[2](秋田県由利本荘市岩城亀田最上町)
主君 岩城宣隆→重隆
藩 出羽国亀田藩士
氏族 真田氏→三好氏(秋田真田家)
父母 父:真田信繁、母:隆清院(豊臣秀次の娘)
猶父:岩城宣隆
兄弟 阿菊/すへ(石合重定/道定室)[3]、於市、
阿梅(片倉重長後室)、あくり(蒲生郷喜室)、
真田幸昌、なほ(御田姫、岩城宣隆室)、阿昌蒲(片倉定広室)、おかね(石川貞清室)、
真田守信、幸信
子 隆長
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略歴

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で、豊臣方に与した父・真田信繁と兄・幸昌が戦死してから2か月後である元和元年(1615年)7月14日、信繁の三男として京都で生まれた。母は隆清院(豊臣秀次の娘)。

出生時の事情から真田姓を名乗ることを憚って、外祖父・豊臣秀次の旧姓である三好姓を称し、三好左次郎と名乗った。

その後、姉・御田姫の嫁ぎ先で、出羽亀田藩主となった岩城宣隆のもとに引き取られた。元服すると三好左馬之介幸信と称し、扶持380石を与えられた。

寛文7年(1667年)6月23日に死去。享年53。

子孫

隆恕の代には主要家臣として掃部の名前が見える[4]、1785年に亀田藩で起きた一揆の訴状の宛先は真田掃部であった(なお結果については要求を掃部は認めたものの首謀者4名は斬首という結果に終わった。)[5]。 9代目[6]の幸友(掃部[注釈 1])の代で絶え、養子に主君隆恕の子隆謨が入り、隆謨の養子には岩城隆邦が入るも主家を継いだため、幸知が継いで現代にいたる。

脚注

参考文献

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