三宅川百太郎
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1869年6月23日、愛媛県越智郡富田村[1]の旧今治藩藩士・三宅川清三郎の嫡男として生まれる。
三宅川家は南北朝時代、伊予河野氏第26代当主通有の孫である越智朝臣三宅川備後守通房(伊勢国宮川領主)を始祖とする家系。血統紋は三つ鱗、定紋は崩三鱗改三霞摺菱、替紋は轡十文字、寺紋は三霞摺菱、墓紋は尻合わせ三階菱。[2]
1892年に東京高等商業学校(のちの一橋大学)を卒業[3]。一年志願兵を経て、1893年三菱合資会社入社。神戸支店、大阪支店、高砂製紙所勤務を経て、漢口支店長、上海支店長、北京支店長、営業部副長を歴任し、1913年門司支店長兼若松支店長兼船舶課長[4]。1917年合資会社三菱製紙所から三菱製紙に改組する際に常務取締役に就任。1920年三菱造船(のちの三菱重工業)常務取締役[5]。1921年から三菱商事会長を務め[6]、昭和恐慌で「不況に対する注意方通知」を出すなどして対応にあたった[7]。1951年麒麟麦酒相談役[8]。
資性篤実にして軽佻浮華を忌むこと甚だしく、敏活且つ粗放に流れない人物であったという。妻テイノは愛知県立医学専門学校(現名古屋大学医学部)教授を務めた杉寛一郎の妹。三菱銀行常務を務めた三宅川保一は弟[3]。