三島喜美代
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大阪市東淀川区(当時)十三で、志水喜代次ときぬ子の長女として誕生する[1]。家は酒屋を経営し、母親は喫茶店を営んでいた[4]。中学校のとき、担任が美術教師であったことから、絵を描き始める[4]。1951年、大阪市立扇町高等女学校(後の大阪市立扇町高等学校)を卒業[1]。卒業後最初の結婚をするが、1年で逃げ出す[4]。
1952年に、アトリエモンターニュ美術研究所に入所し、三島茂司(1920年 - 1985年)に学ぶ[1]。茂司は具体美術協会の吉原治良(吉原製油社長)に師事した画家だった[4]。1953年には茂司と結婚[1]。連日絵画を描き、1954年からは独立美術協会に出展する[1]。
1962年にコラージュの制作を始める[1]。外国の雑誌や新聞のほか、戦争帰りの義兄の軍隊毛布や蚊帳を使用した[1]。1970年には、シルクスクリーンで文字を陶に転写して焼成する作品制作に取り組むようになる[1]。
1986年から翌年まで、ロックフェラー財団の奨学金でニューヨークに留学し、アンソニー・カロ、ロイ・リキテンスタイン、ルイーズ・ネヴェルソンと交流する[1]。
2000年頃から[1]従来制作に用いてきた陶土も有限の資源であることを認識し、溶融スラグ(廃棄物を高温で溶かしガラス状の粉末としたもの)を廃土に混ぜた土を使用した作品を手掛け始める[5]。
2005年に瀬戸内海の香川県直島に、高さ5mに拡大したゴミかごの野外彫刻「もう一つの再生 2005-N」を設置[1][6]。2015年に開設されたART FACTORY城南島に、作品が常設展示される[1]。
2018年に「三島茂司 三島喜美代 二人展」が東京のギャラリーMEMで開催される[1]。夫婦での二人展は1963年以来の開催だった[7]。
2021年に、森美術館の「アナザーエナジー展:挑戦しつづける力―世界の女性アーティスト16人」に選出され出展する[1]。 2023年には、岐阜県現代陶芸美術館で大規模個展を開催。美術館での展覧会は初だった[8]。2024年に、練馬区立美術館で「三島喜美代 未来への記憶」開催。5月19日から7月7日までの会期中、6月19日に91歳で死去した[2]。
作風と主な作品

「おもろさ」を制作の動機とする[9]一方で、「やきものになった印刷物」という文章では、「氾濫する丈夫に埋没する恐怖」について述べ、自分の作品によって出来上がった空間が「現代の不安、恐怖をも含めた乾いたユーモアがあればいい」としている[10]。三島の作品は、ポップアートと対比されることもあるが、大量生産・大量消費社会を礼賛するポップアートと「恐怖」の部分では重ならないと徳山拓一は指摘している[11]。
また、関心の対象は陶に限定されず、自分の発想を美術家と認識しており[12]、走泥社など前衛陶芸とも距離があった[13]。
紙のように薄く延ばした陶土に、シルクスクリーンや手書きで新聞やチラシの文字を転写した立体作品群は、「割れる印刷物」と通称されている[14]。段ボールや飲料ボトルなど、身の回りの日常品をリアルに制作した[14]。
「Work2000‐Memory of Twentieth Century」は、ART FACTORY城南島の床に煉瓦約2万個を敷き詰めた作品で、焼物を焼く際に下に台として敷く耐火煉瓦を再利用し、1900年から2000年までの新聞記事を転写してある[15]。表に見える記事は日本語のもので、裏面には世界の言語の記事が使用されている[15]。1984年から制作に着手し、2001年には「20世紀の記憶」として個展に出品、2013年に完成した[1]。三島は制作のため、図書館でマイクロフィルムを繰りながら記事を選んだという[15][16]。