浪華商(現・大阪体育大学浪商中学校・高等学校)を卒業後、1943年に阪急軍に入団。勝負強い打撃で、戦力不足に悩んでいたチームを助けた。1945年の終戦直後に行われた第9回職業野球東西対抗戦[4]では西軍に選抜された。しかし、その頃から肺を病むようになり、阪急には1947年まで在籍したが、1946年7月1日のゴールドスター(後の大映ユニオンズ)戦(西宮球場)を最後に試合に出場することはなかった[2]。
1947年シーズン途中に引退[5]。翌1948年(年月日は不明)に、結核のため23歳で死去した[6]。同僚だった西村正夫は三木の死に顔について「白蝋のように美しい顔だった」と回想している[6]。