三枝佐枝子
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商品科学研究所所長として
若尾金造の三女として山梨県甲府市に生まれる[1]。生家の若尾家は甲州財閥の中心的存在だった。
1938年東洋英和女学院高等部、1941年日本女子大学を卒業。1942年、同郷の三枝守雄と結婚。守雄は東大生時代に本郷追分のYMCAに寄宿していたことから佐枝子と知り合った。
守雄が気付いた新聞の三行広告をきっかけに[2]、1946年4月に中央公論社に入社。
1958年9月、嶋中鵬二に代わって『婦人公論』編集長となり、日本で初めて商業誌の女性編集長となった[2]。揺れ動く性道徳や女性観の中で斬新な誌面を作り、発行部数を20万台から30万台への飛躍を成し遂げ、40万部に迫らせた[3]。また女流新人賞にも力を入れ、新たに女流文学賞を設けた。女流文学賞はもともと女流文学者会の賞であったが、会の主催者と三枝が話し合いによって『婦人公論』が主催することになった[4]。のち編集局長。1968年に退職。
1973年に商品科学研究所所長に招かれ、1978年から西武百貨店監査役を務める[5]。1984年から7年間山梨県立総合婦人会館館長と県教育委員を担い[5]、『山梨女性史ノート』編纂にも携わった。また、同年から13年間、読売新聞の人生相談を担当した[6]。
夫のある身で職業と家庭を両立させ、人生相談で不倫の相談をしてくる者に厳しい回答を与えていたのは、女性の評価がそういうことで下がってはならないという強い意志の表れだった。
商品科学研究所は、西友ストアーの10周年記念事業として、1973年10月に設立されたもので、中立的、公正な商品テストを行い、消費者の声をメーカーに伝えて商品づくりに反映させることを目的にした。この研究所の所長に評論家として活躍していた三枝は招かれ、理事には加藤秀俊、高峰秀子など各界の有識者、堤清二、三好基之らをはじめとする西武関係者が就任した[8]。
商品科学研究所の実際のスタートは、1974年1月に西友ストアー荻窪店の隣に設置された荻窪テストキッチン・コアを舞台にスタートした[9]。テストキッチン・コアは、西友ストアー店頭でのアンケートに答えてくれた人を中心に呼びかけ、メンバーを募って会員制で運営した。商品テストを試験室で条件を設定して厳密に行うという、その当時の『暮しの手帖』方式ではなく、実際に家庭で使っている状態でテストするというのが、コアのやり方であった[9]。また機関誌の発行も、会員誌『TWO WAY』(隔月発行)と研究発表誌『CORE』(季刊)が定期的に刊行され、奥様セミナーも組織された[9]。
量販店がプライベートブランド(PB)の開発に取り組んだのは、1970年代半ばからであるが、西友ストアーは1977年に「料理素材館」と命名した独自のPB商品を開発・販売した[10]。そして、この新しいPB商品に「SEIYU LINE」という統一ブランドを付し、その開発には、商品科学研究所の協力も欠かせないものであった[10]。商品の本来の機能に沿って、ムダをそぎ落として良品廉価を実現する、というのが「SEIYU LINE」の基本コンセプトであったが、それには主な消費者である主婦の意見を反映することが重要であったからである[10]。こうして素材・工程・包装の3面から、従来のPB商品より10~15%低価格の商品群が開発され、1980年12月に40アイテムが西友ストアー全店、ファミリーマート6店舗、西武百貨店11店舗で発売された[11]。そしてそれらの新しいPB商品は、ノーブランドでありながら良質であるとの意味をこめて、デザインを担当した田中一光によって「無印良品」とネーミングされた[12]。