三橋豊夫
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鴻巣高校から日本通運に入社。1970年の都市対抗に出場。1回戦で九州産交を相手に先発し8回2失点と好投するが、リリーフが打たれ9回裏サヨナラ負けを喫する[1]。
1970年ドラフト会議でヤクルトアトムズから2位指名を受けると会社からの慰留があったが交渉の末に入団。大型左腕として期待され、嘗てチームの大エースであった同じ左腕の金田正一が付けていた背番号34を貰うが、一軍登板は1971年9月6日の対巨人戦で王貞治に与えたストレートの四球のみにとどまり、1972年のオープン戦の好投後に肘が悪化しリハビリを続けるが1976年限りで引退した。1977年、28歳で立川市教委体育課に入り、市営球場と陸上競技の管理を担当した。ヤクルトのOB会に所属しており、少年野球の指導にもあたっている。
球威は抜群でオーバースローからの大きなカーブ、シュートを武器としたが、制球力に欠けた。ファームで基礎から鍛え直したが安定感はなく、下半身が突っ張って上体だけで投げるピッチングは治らなかった。
現在は植木職人をしていることが、2023年12月15日にNHKの『ドキュメント72時間』[2]で放映された。