三浦淳史

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三浦 淳史(みうら あつし、1913年11月1日 - 1997年10月13日)は、日本の音楽評論家秋田市生まれ。イギリス音楽の第一人者として知られた。

父は北海道帝国大学工学部で冶金学の教授を務めていた[1]。札幌第二中学校(現札幌西高等学校)で伊福部昭佐藤忠良らと知り合う。北大予科在学中の1934年、伊福部らと共に「新音楽連盟」を結成する。当時に映画『慕情』のモデルとなるイアン・モリソン(映画ではマーク・エリオット)に英語のてほどきを受ける。その後“落第”[2]して東北帝国大学に転じる。1940年、同大学法文学部を卒業する。ここでは村岡典嗣による日本思想史の講義を受講したという[3]。北大予科在学中から音楽誌『月刊楽譜』[4]に「札幌楽信」等を寄稿、戦後音楽誌の復活に伴い、音楽ジャーナリズムで活躍するようになった。イギリスをはじめとする諸外国への取材旅行を重ねるのみならず、『タイムズ』紙や『タイム』誌といった新聞雑誌[5]から『グローヴ音楽事典』に至るまで、洋書を広く渉猟して欧米の音楽事情に精通し[1]、「海外屋」の異名をとった。そのため、出版社やレコード会社からの信頼も厚かった[1]。イギリスの作曲家では、ヴォーン・ウィリアムスフレデリック・ディーリアスなどを高く評価していた[1]

評論スタイル

演奏家はその演奏だけ聴けばよいというご意見もあるわけですが、人間的なことに興味のある者としては、やはり演奏家の人間性とか、エピソードとかに関心をいだきたくなるのも人情というものでしょう。 (中略) エピソードほど、その人の人間性のにじみでているものもありますまい[6]、「エピソードを欠いている人間描写とか人物論は、スパイスのない料理にひとしい」[7]と述べている。音楽そのものの描写は簡潔な印象を記すにとどめ、専らエピソードの紹介を通じて音楽家の人間像を描くことに努めるが彼のやり方であった[要出典]オットー・クレンペラーの奇行の数々に代表されるような、こんにち広く語られるようになった音楽家のエピソードには、三浦によって紹介されたものが多く含まれている。クレンペラーのエピソードもそうだが、三浦の紹介するエピソードには音楽家を神格化する類のものよりも、むしろ偶像破壊的なものが多かった(代表例はフレデリック・ディーリアス[8]ベンジャミン・ブリテン[9]など)。この点で、彼が翻訳したヒューエル・タークイの『分析的演奏論』に「人間の光と影」という副題が付いていることは象徴的である。三浦は音楽家の「光」の部分のみを描くようなことはしなかった。自我を前面に押し出すことをせず、エピソードをして語らしめるのが彼の音楽評論であった[要出典]

略歴でも触れたように、三浦は早くから欧米の音楽事情に通じており、その紹介に努めて「海外屋」の異名をとった。例えば、有名指揮者のほとんどが所属するという音楽事務所「CAMI(コロムビア・アーティスツ・マネージメント・インク)」の存在はノーマン・レブレヒト『巨匠神話』(日本語版は1996年出版)によって認知されるようになったが、三浦は、既に1970年代にはこの組織に言及していた[10]。なお、「海外屋」と命名したのは「某音楽出版社のK部長」であるというが[11]、それ以上のことはつまびらかでない。

イギリス音楽の「十字軍」として

彼は「評論家十字軍説」という文章の中で「批評家というものは、何かをひじょうに支持するか、あるいは何かにひじょうに反対するかしなくてはならない」[12]というアメリカの音楽評論家の説を引用しているが、三浦が非常に支持したのはイギリスの音楽であった[要出典]。1950年代には既に英米の音楽に強い評論家としての地位を築いていた。ネヴィル・マリナーなど親交のある音楽家の姿を日本に伝え、またジャクリーヌ・デュ・プレの熱烈なファンを以て自認する一方[13]ジョージ・バターワース[14]を初めとして、ロジャー・キルター[15]アーネスト・ジョン・モーラン[16]といった知られざるイギリスの作曲家を紹介することも忘れなかった。

伊福部昭と三浦淳史

札幌二中在学中、三浦は伊福部に「音楽をやるなら作曲以外は意味がない」と作曲を勧め、後に伊福部から(自分を作曲界に陥れたという意味で)「メフィストフェレス」と称された[1]。「優れたアジテイター」[17]と自称するメフィストは盛んに活動した。あるとき三浦は、伊福部と共にスペインのピアニストであるジョージ・コープランドのレコードを聴いて感激、文通を始める。三浦が「友人に作曲家がいる」と書き送ったところ「作品を送るように」との返信があり、三浦は「これで曲を送らなかったら国際問題だな」[18]と言い、伊福部はピアノ曲を書かざるを得ない状況に追い込まれてしまった。こうして生まれたのが伊福部の事実上の処女作「ピアノ組曲」(1933年)である[1]。本作は1990年代になって「日本組曲」の題名で管絃楽曲や箏曲に編曲され、伊福部のライフワーク的作品となった。

また、前述の「新音楽連盟」は1934年9月30日に札幌で「第1回国際現代音楽祭」を開催してエリック・サティの作品などを日本初演しているが、このとき三浦は曲目解説を執筆し、そのパンフレットは36ページに及んだ[1]。ここで取り上げられた曲目に独墺系の作品は含まれておらず、主にフランスやスペインの音楽によって構成されていた。こうしたフランス好みは三浦と伊福部に共通しており、その由来について三浦は「わたしがろくにフランス語もできもしないくせに、フランス語やフランス歌曲にひかれるのは、感じやすい若い時代に、フランスのレコードが活躍で、けっしてドイツにひけをとらなかったため、フランス歌曲のレコードが盛んにわが国でプレスされたせいなのである」[19]と述べている。

レコードは三浦と伊福部の家にもあったようだが[20]。、彼らはレコードを聴くために連れだってあちこちに出かけた。当時札幌にあった名曲喫茶「ネヴオ」では、夜の10時ごろになって客足が遠ざかると、店主は現代音楽のレコードをかけてくれたという。彼らはここで、ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」などを初めて聴くことになる。彼らはヨーロッパから楽譜や理論書を取り寄せて共に音楽修業に励む仲であった[21]

伊福部の代表作「シンフォニア・タプカーラ」は三浦に献呈されている[22]。作曲者曰く、この交響曲は十勝平野アイヌ語でシャアンルルー)に暮らすアイヌへの共感とノスタルヂアが動機となって作曲された[23]。そのシャアンルルーの世界を音にして都会人の三浦に伝えたい、というのが献呈の経緯であるという[24]。「アイヌ語でシャアンルルーと呼ぶ高原の一寒村」[25]に音楽的故郷を持つ伊福部とは対照的に、札幌で育った三浦は伊福部の言う通り都会人であることを自認しており、「人は観念的に大都会を嫌ったりしがちだが、田園に自由ありや否や? ぼくなんかも、大都会に自由ありのほうで」などと述べている[26]。このように対照的な資質をも有する2人であったが、後に伊福部は三浦が亡くなったときのことを回想して「その晩は、音楽を書きたいと思うようになって以来のことがすべて思い出されてしまい、今昔の感に堪えないというか、名状しがたい気分に襲われました」[27]と述べている。

後に三浦はイギリス音楽の紹介者として知られるようになり、伊福部はロシア音楽へ向けて自らの音楽世界を広げていったのであったが、青年期に音楽遍歴を共にした彼らの音楽嗜好には共通するものがあった。彼らは独墺系の音楽よりもフランスやスペインの音楽を愛した。三浦に至っては酒もフランスやスペインのものが好きであったらしく、彼の文章には早くから「ボージョレー・ヌーヴォー」の名が頻出し、またシェリーも好んだようである。伊福部も酒豪で知られた。

また、彼らは共に愛煙家でもあった。銘柄は、伊福部がダンヒル、三浦がキャメル。曰く、「何もキャメルでなくたっていいのだが、ぼくの場合は、初めて喫った舶来タバコ──戦前は“洋モク”などという品のない言葉はなかった──に回帰すること、久しいので、タバコといえば、キャメルなのである」[28]

三浦が死去した時、伊福部は「兄の勲も若い頃の音楽仲間も既に亡く、自分だけが残って寂しい限りです」とその死を嘆いた[1]

著書

外部リンク

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