三浦重成
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はじめは佐原氏で、源頼朝に仕えた佐原義連(三浦氏一族)の末裔と称する[2][1]。父の佐原作右衛門義成(延兼)[注釈 2]は、天正18年(1590年)の小田原征伐で本多忠勝に属して従軍したが、5月20日の岩槻城攻撃において戦死した[2][1]。
重成は徳川家康の小姓を務めていたが、家康の命によって名字を三浦に改めた[2][1]。天正18年(1590年)8月、家康が関東に入国すると、父の戦功によって下総佐倉領に1万石が与えられた[2][1](領地は下総印旛郡・上総山辺郡)。『佐倉市史』によれば、知行割りが行われたのは天正19年(1591年)で、上総国大網(現在の大網白里市大網)・本納(現在の茂原市本納)および下総国佐倉で1万石が宛がわれた[1]。なお、中村孝也『徳川家康の研究』では、佐倉に封じられた人物の名を「三浦監物義次」としている[1][注釈 3]。
文禄4年(1595年)に豊臣秀吉によって従五位下・監物に叙任され、併せて豊臣姓を与えられた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、近江国浅井郡で3千石を加増された[1]。中村孝也はこの際に近江に移封されたとするが[1]、上総国の所領との関係も続いている[1]。
重成は当初男子に恵まれなかったため、阿部正次の二男重次を婿養子に迎えた[3][1](重次の母が佐原義成の娘である[3][4]ため、重次は重成の甥にあたる)。その後慶長10年(1605年)に重成に男子(重勝)が生まれたため[1]、重次には近江の所領3000石を分与して別家を立てさせた[2][注釈 4]。慶長20年/元和元年(1615年)の大坂夏の陣の際に重成は病気にかかっており[3][1]、代わって重次が出陣した[3]。
重成がいつ没したか、重勝がいつ家督を継承したかについては不明である[1]。重勝は父の遺領を継いだのち寛永元年(1624年)に従五位下に叙された[2]とあることから、重成は慶長末年ないしは元和年間には没していた可能性が高く[1]、大坂夏の陣の際にかかっていた病気がもとで死去したのかもしれない[1]。