三谷春道

From Wikipedia, the free encyclopedia

みたに はるみち

三谷 春道
向かって左端が三谷。中央は高杉晋作、向かって右端は伊藤博文
生誕 国松
嘉永5年(1852年
日本(現山口県
死没 1935年昭和10年)8月
東京府東京市大森区(現東京都大田区
墓地 東京都目黒区正覚寺
国籍 日本の旗 日本
テンプレートを表示

三谷 春道(みたに はるみち、嘉永5年〈1852年〉- 1935年昭和10年〉8月)は、幕末から昭和にかけての人物。伊藤博文高杉晋作とともに撮影された写真で知られる[1]幼名は、国松(くにまつ)。

の村上家に生まれた国松は高杉晋作に憧れ、子分となった。晋作が一時期名乗っていた「三谷和助」から姓をもらい、三谷を名乗った。 1867年に晋作が病死した際には、遺族から国松に形見分けとして羽織が贈られている。明治に入ると晋作の諱(春風)にあやかり春道と名乗った。1887年には2代目品川駅長に就任しているが[2]、のちに実業界に出て失敗、昭和10年8月に大森区で死去。

人物

本人は軍人になりたかったらしく、転職希望を聞いてもらうため伊藤の元を訪れたことがある[3]

写真

高杉晋作と伊藤博文がともに写るとされる写真において、背後に立つ少年については長年議論がある。かつては多くの書籍でこの少年を山田顕義と紹介していたが、山田と伊藤の年齢差から見て外見的に矛盾があること、また伊藤が高杉のために上海で購入した洋服を「国松」に届けさせたとの記述などから、少年を山田とする説には無理があるとされている[4]

この少年は三谷国松であると考えられており、のちに春道と改名したことが知られている。春道の除籍謄本には改名の時期や理由についての記載はないが、彼が豊前国田町村上作十の長男であったことが確認できる。国松(春道)には4男2女の子があり、その内の榎本造(タツ、明治12年生)の孫が佐野日本大学高等学校校長・寺内治男の夫人である[4]

この夫人は祖母から三谷に関する多くの話を聞かされており、なかでも祖母・造が写真を見た際、国松の姿をすぐに自分の父と認識したという。また、国松が背負っている竹筒には酒が入っており、酒好きの高杉のために用意されたものであると証言している。これらの点から、三谷国松と春道が同一人物であるとの見方が現在では決定的とされている [4]

脚注

参考文献

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI