上原公子
日本の女性政治家、第5代東京都国立市長 (1949-)
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来歴
生い立ち
宮崎県宮崎市生まれ。旧姓は布施[3]。宮崎大学教育学部附属中学校を経て、1965年4月に宮崎県立宮崎大宮高等学校に入学[4]。3年前に宮崎市内に宮崎県立宮崎南高等学校が新設されたことを受け、大宮高校は受験戦争を勝ち抜くため、成績上位者のリストを学内に掲示した。生徒会の役員だった上原は「なぜ成績の優秀者を生徒に周知させる必要があるのか。学校生活は何のためにあるのか」と生徒たちに問題提起し、話し合いをした。それとともに九州各地の高校を訪れ、生徒会のあり方も研究した。生徒の総意を取り付けた上原らは学校側と団体交渉を重ね、掲示を撤去させた。のちの取材で上原は「大宮高校は民主主義の学校だった」と語っている[3]。
1浪後、1969年4月に法政大学文学部史学科に入学。1973年3月、同大学卒業[4]。日本史の卒業論文が大学の代表に選ばれ、関東地方の大会に参加。認められて同大学院人文科学研究科に進むも中退[5]。
結婚後、夫の仕事の関係で横浜市に住む。しかし大きな団地で子どもを育てることに疑問を抱き始め、「住むところは私が決める」と夫に宣言。中央線沿線で引っ越し先を探す中、国立駅前のイチョウ並木を見た途端に心を奪われ、国立市に移り住んだ[6][4]。
1983年、生活クラブ生協の国立支部の立ち上げに関わる[5][7]。1985年7月の東京都議会議員選挙の北多摩第2区(国立市・国分寺市・小金井市)で、国分寺市在住の生活クラブ生協理事の池田敦子が初当選した[8]。この選挙や、娘の小学校の校庭を分断する道路建設反対の運動に参加したことが、政治活動に関わるきっかけだったという[5]。
1989年、東京・生活者ネットワーク代表に就任[5]。
1991年、国立市議会議員選挙に立候補し初当選。1995年の市議選には出馬せず1期で退任。
国立市長へ
上原は地元の一橋大学で藤岡貞彦の環境教育学の授業にずっと出ていた。その藤岡が1998年3月に定年退職することになった。藤岡は大衆運動の第一人者でもあったので、上原は退官記念論文集に論文を書くことを依頼された。自身の経歴をまとめるなかで「これだけまちづくりの運動をやってきた私が、まちづくりを実践する立場に立たないというのは責任上いけないのではないか」とだんだんと思い始め[4]、1998年初め、ついに任期満了に伴う国立市長選挙への出馬を決意した。そこから1年ほどかけて財政学を勉強した[9]。
1998年秋、上原と後援会幹部は相次いで旧民主党衆議院議員1期目の末松義規を訪ね、党の推薦を要請した。だが、末松は「地元の考えを聞きたい。もう少し待ってほしい」と明言を避けた。国立市の民主党系市議は前回の統一地方選で新進党、民社党系の候補として出馬しており、かつ、市議会でも佐伯有行市長の与党として活動していた。3選を狙う佐伯陣営も上原の陣営もそれぞれ、多摩地域で根強い党代表の「菅直人人気」を当て込み接触を続けた。民主党が出した結論は「自主投票」だった。告示4日前の1999年4月14日に行われた佐伯の決起集会には3人の民主党市議が出席し、佐伯は応援者として3人をそれぞれ紹介した[10]。
1999年4月18日、国立市長選挙が告示され、社民党・共産党・生活者ネット推薦の上原と、自民党・自由党の推薦と公明党の支持を得た現職の佐伯有行の二人が立候補の届出をした[11]。上原の資金はわずか800万円で、電話は2台しかなく、駅前で借りた事務所の家賃は1万円だった[3]。ハンドマイクは議員から借りたものを使った[6]。佐伯は公開討論会などで上原の景観保護論を「現実味のない理想論」と切り捨てた。同月25日に投開票が行われ、上原が佐伯を小差で下し初当選した(上原:15,942票、佐伯:14,691票)[12][11]。東京都初の女性首長となった[2]。
2001年5月16日、国立市議会は臨時会を開き、議長に小沢靖子(日本共産党)、副議長に佐藤節子(生活者ネット)をそれぞれ選出した。市長と正副議長の3人が女性になったのは全国で初めて[13]。
2003年に再選。2007年の国立市長選には出馬せず、退任した。市長選では、上原市政の継承を訴える関口博が当選した。
2007年7月の第21回参議院議員通常選挙に社会民主党公認で比例区から出馬したが、落選した。
活動
- 1996年8月、国立市に対して、用途地域規制緩和による「景観権」侵害を主張する損害賠償訴訟を提起。原告団長を務めた[14][15]。
- 2000年4月、市は平和都市宣言の文案を募集。25人から応募があった。一橋大学教授の山内敏弘が座長を務める宣言文案検討委員会がその中から一つの文案を選び[16][17]、同年6月21日に「国立市平和都市宣言」が制定された[18]。
- 2003年12月4日、イラクへの自衛隊派遣を中止するよう求める意見書を小泉純一郎首相宛てに送った[19]。
- 2004年5月21日に明治公園で開かれた「有事法制反対集会」で、国民保護法は地方自治体に国民保護協議会の設置を義務づけており、協議会には自衛隊関係者も入ってくることから、「自衛隊の民衆化・民衆の自衛隊化」が始まると発言している[20]。
- 2005年3月、「マガジン9条」発起人を務めた[21]。
- 2006年9月、加藤紘一宅放火事件に対し、「民主主義にとってテロは敵だ。言論封じのあらゆるテロを許さない」と非難する共同宣言を石坂啓らと共に発表した[22]。
- 2007年12月、社会民主党の党大会において労組依存体質から脱却し、市民運動やNPOの連合体を目指す党改革案を提出し、話題となった。
- 2009年10月、フリーター全般労働組合などが主催した「リアリティツアー 62億ってどんなんだよ。麻生首相のお宅拝見」で、無許可デモ及び公務執行妨害の容疑で3人が逮捕されると、これを不法逮捕とする糾弾運動に石坂啓らと参加した。
- 2012年4月、「脱原発をめざす首長会議」の設立呼びかけ人となり、事務局長を務める[23]。
- 2016年7月、2016年東京都知事選挙において「鳥越俊太郎を応援する市民センター」を設立。代表世話人を務めた[24]。
マンション訴訟
- 2008年国立市でのマンション反対運動の中で明和地所[25]に対して機密漏洩、営業妨害など違法行為を行ったとして、同社から訴訟を起こされ、2500万円の損害賠償が確定し、国立市が利子も含め3120万円を明和地所に支払った。なお、この裁判の中で市議会が最高裁判所への上告を否決したにも拘らず、上原の後押しで補助参加人が上告したことで、国立市議会特別委員会「明和マンション裁判調査特別委員会」に参考人として招致されたが、途中で所用により退席、再度の招致には応じなかった。
- 明和地所は二ヶ月足らず後に、自らの正当性が認められたことで目的は達したとして、支払われた同額を国立市に寄付。
- この損害賠償の費用を国立市長は、違法行為を行った上原公子に請求するよう住民訴訟が起され、(2010年12月22日)東京地方裁判所で住民側の訴えが認められた。これに対して国立市長関口博(当時)は控訴したが、2011年5月30日国立市長佐藤一夫が控訴を取り下げ判決が確定した。判決確定後、60日間支払いが行われなかったため、2011年12月21日に国立市は上原公子に対して損害賠償を求め東京地裁に提訴した[26]。この裁判の一審は上原が勝訴し、二審の控訴審が2015年9月10日、結審。同日の報告集会で支持者からは「市民自治を潰すスラップ(嫌がらせ訴訟)を許さない」といった批判の声が出された。同年12月22日、東京高裁は市の請求を認めなかった一審東京地裁判決を取り消し、上原に全額の支払いを命じた[27]。上原は最高裁に上告するも、棄却され判決が確定した[28]。2017年11月21日、約5000人の支援による第三者弁済により全額を完済している[29]。