上原愛子
日本の伝道者、牧師
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経歴
沖縄県読谷村字座喜味の農家で誕生した[4]。初名はナビー[5]。母は夫との死別後に、沖縄の牧師である比嘉保彦の導きでキリスト教徒となっていた[4]。愛子もまた17歳で受洗し、熱心なキリスト教徒となった[2]。21歳で豪農の家に嫁いだが、キリスト教徒であることを非難され、次男の妊娠中にもかかわらず離縁された[2][6]。
実家では兄夫婦に厄介者扱いされ、さらに次男が誕生直後に早世した。愛子は教会でこれまでの経緯や苦悩を話し、信仰に生きることを勧められた[6]。比嘉保彦のもとで字を学んだ後に、東京の聖書学院(後の東京聖書学院)に入学した[4]。卒業間際、郷里の比嘉より、異端の新興宗派打破の応援を依頼され[5]、中退して帰郷し、路傍伝道に立った[6]。
長崎県の活水女学院(後の活水学院[4])を卒業後、大阪東成区の蒲生教会で活動した。長男が中学卒業間際に病死したが、その悲劇を試練として受け止め、さらに信仰の道に打ち込んだ[7]。
大阪での任期を終えた後に帰郷、沖縄各地での伝道の後、郷里の読谷村に伝道所を新築し、自力で伝道を始めた。人々は当初は興味本位であったものの、愛子の心は人々をとらえ、次第に信者の数は増えていった[7]。
戦中は台湾へ疎開した。当時の日本人は台湾人を差別していたが、愛子は「神の愛のもとに人間は平等」と説いて、自ら台湾人の中へ入って行った。しかし戦中は大規模な活動はできず、家庭集会での伝道を強いられた[7]。
戦後は日本へ引き上げて、石垣島、沖縄本島中部で伝道の後、1950年(昭和25年)にコザ市にコザ伝道所を設立した[7][8]。すでに70歳を過ぎた愛子は、同地の女性たちから「キリスト教は不要」と冷淡な言葉をかけられることもあったが、家々を回って伝道を続けた[7]。
1955年(昭和30年)3月29日、沖縄キリスト教会理事長となった比嘉から牧師の資格を与えられ[7]、日本基督教団の牧師となった[4]。コザには新たな牧師が配置されたことで、新たな教会として美里村に美里教会を創立した[7]。しかしコザの教徒たちが愛子の転出に反対したため、愛子は2つの教会を1年近く掛け持ちした末に、老齢により美里に専念した[7]。