上杉教朝
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応永15年(1408年)、上杉氏憲(禅秀)の子として誕生。生まれてまもなく、常陸国の国人・大掾満幹の養子となっていた。
応永23年(1416年)、父の禅秀が反乱を起こし、一族の多くと共に敗死・自刃すると(上杉禅秀の乱)、憲秋・持房らの兄と共に京都に逃亡して僧になった。
後に還俗し、室町幕府の6代将軍・足利義教より偏諱を受けて、教朝と名乗った。そして、永享10年(1438年)の永享の乱、同12年(1440年)の結城合戦において兄と共に軍を率いるなど、幕府方として活躍した。
長禄2年(1458年)5月(6月とも)、 足利政知が享徳の乱を引き起こした足利成氏に代わる鎌倉公方として、新たな公方として幕府から関東に派遣されると、教朝も渋川義鏡らと共に下向した。その際、教朝は義鏡と共に関東執事に任じられ、政知の補佐役となった[1][2]。
だが、教朝は主君の政知らと共に鎌倉入りを目指したが、政情不安のため果たせなかった。そのため、政知はその手前の伊豆堀越に留まり、堀越公方となった。
寛正2年(1461年)10月、教朝は「心中に決し難きことあり」として、伊豆の国清寺で自害した[3][4]。享年54。
当時、政知は幕府から御料所や新闕所の処分権を与えられていたことで、相模や武蔵東部といった扇谷上杉氏の勢力圏において、両国の御料所や闕所地を収公し、それらを自身の近臣に与えていた[5]。その中には、扇谷上杉氏が武蔵における本拠としていた河越荘も含まれていた[5]。教朝はその事態解決に苦慮して自害したと考えられるが、扇谷上杉氏の側でもまた、太田道真(資清)が家宰を辞して隠居していることから、両者の間で均衡がとられたものとする見方がある[3]。