上田公長
From Wikipedia, the free encyclopedia
松村呉春及び中井藍江の門人。大坂の人。俗称は順蔵。字は有秋といった。公長、雍州、水雲閑人と号している。船場の木綿問屋・六代目阿波屋忠次郎の長男として生まれたと言われるが、元稲荷座大夫某の子という異伝もある。まず、四条派の絵師・松村呉春に師事、後に中井藍江の門人となってして一家を成した。一説には、呉春の門に入って松村景文に画を学び、長山孔寅、松本観山、中川山長に師事したともいう。紀州徳川家藩主・徳川斉順に召されて御用絵師となり、上田姓と陰葵の紋を拝領。更に十二代将軍・徳川家慶の前で御前揮毫をしたともいう。
作画期は、文化(1804年‐1818年)から安政(1854年‐1860年)期。画風は四条派の流れを汲むが、文人画風の作品や、俳画なども制作している。文政(1818年‐1830年)の頃には安堂寺町に住んでおり、後に天保(1830年‐1844年)、弘化(1844年‐1848年)頃、南久太郎町に移り、嘉永(1848年‐1854年)頃、道修町に、そして安政期には古手町に居住していた。主として地誌本などの挿絵を描いており、略画の絵手本も残している。
代表作として、『公長画譜』天地二冊(天保5年(1834年))、『公長画譜 二編』乾坤二冊(嘉永2年(1849年)や、嘉永3年(1850年)刊行の『水雲略画』一冊、及び同著の復刻・分冊した『公長略画』乾坤二冊(文久3年(1863年))、『上田公長粉本』といった画譜類が挙げられる。こうした画譜類はあまりに絵を乞う者が多く、弟子に教える暇が無いために出版したと言われる。また、江戸後期の国学者・歌人である加納諸平が撰し、西村中和・小野広隆らと合作をしている地誌本『紀伊国名所図会』第三編(天保9年(1838年))、地誌本『河内国名所図会三集』七冊、などの版本もある。
門人に山口長受、田中公憲、橋爪公古。また、大坂城付の与力と推測され、『公長画譜』の蔵版者としてその出版に協力した浅羽韋斎がいる。更に公長の子、公圭も絵師で、父と似た四条派を元にした絵を残している。
代表作
| 作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款・印章 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 三人物図 | 紙本墨画淡彩 | 関西大学図書館 | 天保9年(1838年) | ||||
| 狐の嫁入り図屏風 | 紙本墨画淡彩 | 六曲一双 | 摘水軒記念文化振興財団(府中市美術館寄託) | ||||
| 雪中行旅図襖 | 紙本墨画淡彩 | 襖4面 | 大阪市立美術館 | ||||
| 牡丹孔雀図 | 絹本墨画淡彩 | 1幅 | 大阪市立美術館 | ||||
| 蟹子復讐之図 | 絹本著色 | 大阪市立美術館 | 篠崎小竹賛。画題はさるかに合戦に取材 賛文の多くは中井履軒が書いた説明を写している。 | ||||
| 桃林謝日図 | 絹本著色 | 双幅 | 逸翁美術館 | 各幅に款記「公長」[1] | |||
| 仏涅槃図 | 紙本著色 | 1幅 | 宝塚市・中山寺阿弥陀堂 | 1846年(弘化3年) | 款記「弘化三年丙午春二月 公長寫」 「公長之印」白文方印・「有秋氏」朱文方印[2] | ||
| 風神・雷神図 | 絹本墨画淡彩 | 双幅 | 84.0x27.0 | 西本願寺 | 制作時期不明 | 各幅とも款記「公長」/「公長」朱文円印 | 琳派で描き継がれた伝統的な画題ながら、仏法の守護者をあえて年老いた姿で描いている[3]。 |
| 芭蕉涅槃図 | 紙本著色 | 個人 | |||||
| 御蔭参り図巻 | 紙本淡彩 | 1巻 | 30.8x406.8 | 大英博物館 | 款記「公長」 | ||
| 牡丹孔雀図 | 絹本著色 | 1幅 | 91.7x145.6 | ボストン美術館 | 款記「公長」 | ||
| 双鴨翡翠図 | 絹本淡彩 | 1幅 | 58x83.8 | ボストン美術館 | 款記「公長寫」 | ||
