上野十蔵
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鹿児島県薩摩郡隈之城郷(現在の鹿児島県薩摩川内市の一部)出身。実業家三代目上野喜左衛門の甥[1]。
1916年東京高等商業学校(現一橋大学)卒業、三井鉱山入社。高等商業学校ではボート部に所属。
その後貿易会社の大正貿易商会紐育(ニューヨーク)支店長を務めたが、会社が倒産。関東大震災で子供をかばったまま死んだ母親の死体を見て衝撃を受け、1925年、32歳で中外新薬商会(現中外製薬)を設立[2]。1942年に中外製薬に改組・改名。
製造工程のオートメーション化により、「グロンサン」などの大量生産に成功[3]。同時に広告戦略を巧みに使い、業容を拡大。1962年には日本宣伝賞を受賞。
しかし証券不況のあおりを受け業績悪化。本社売却、人員削減、商品戦略の見直しを行い、1966年4月、会社再建のめどをつけ、社長を退任。娘婿の上野公夫に譲る。
1972年11月18日、南青山の自宅で心筋梗塞のため死去。享年80[4]。墓所は青山霊園(1ロ-12-7)。死没日付をもって正五位に叙された[5]。