不知火 (妖怪)
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海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、「親火(おやび)」と呼ばれる火が出現する。それが左右に分かれて数を増やしていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶ。その距離は4〜8キロメートルにも及ぶという[1]。また、引潮が最大になる午前3時から前後2時間ほどが最も不知火の見える時間帯とされる[3]。
水面近くからは見えず、海面から10メートルほどの高さの場所から確認できるという[3]。また、不知火に決して近づくことはできず、近づくと火が遠ざかっていく[3]。かつては龍神の灯火といわれ、付近の漁村では不知火の見える日に漁に出ることを禁じていた[4]。
景行天皇が クマソをせいばつして、九州をまわられた時、ある海岸から船に乗って海にでられた。そのうちまっくらい闇が迫ってきて、どこへ着いて良いかわからなくなってしまった。 すると、突然はるか前方にあかあかと、火の光が現れてきた。天皇は舵を取っている船頭に向かって、「あの火にむかってすすめ。」とおっしゃった。言われるままに船を進めると、やがて無事に海岸に着くことができた。天皇は村の土地のものに向かって「あの火の燃えるところは、なんというところだ。そして、いったいあの火は何の火だ。」「はい、あれは火の国の八代郡の火の村でございます。しかしだれがつけて燃やしているのか、わからない火でございます。」そこで天皇は「あれはおそらく人の燃やしている火ではあるまい。」しらぬひ、しらぬいという呼び名は、ここから起こっている。
(『日本神話物語』 福田清人 訳 講談社発行)
正体
大正時代に入ると、江戸時代以前まで妖怪といわれていた不知火を科学的に解明しようという動きが始まり、蜃気楼の一種であることが解明された。さらに、昭和時代に唱えられた説によれば、不知火の時期には一年の内で海水の温度が最も上昇すること、干潮で水位が6メートルも下降して干潟ができることや急激な放射冷却、八代海や有明海の地形といった条件が重なり、これに干潟の魚を獲りに出港した船の灯りが屈折して生じる、と詳しく解説された。この説は現代でも有力視されている[3]。干潟には曲がりくねった澪が発達し、蛇行する河川も多い。水面と地面では温まりやすさが異なるため、温度差のある空気が並ぶことがあるのではないかと考えられる[5]。
熊本高等工業学校のち広島高等工業学校の教授であった宮西通可(みやにし みちか:1892‐1962)は専門的な研究を行った。それによると、不知火の光源は漁火であり、旧暦八朔の未明に広大なる干潟が現れ、冷風と干潟の温風が渦巻きを作り、異常屈折現象を起こして漁火が燃える火のようになり、それが明滅離合して漁火が目の錯覚によって怪火に見えるという[6]。
また、山下太利は、「不知火は気温の異なる大小の空気塊の複雑な分布の中を通り抜けてくる光が、屈折を繰り返し生ずる光学的現象である。そして、その光源は民家等の灯りや漁火などである。条件が揃えば、他の場所・他の日でも同様な現象が起こる。逃げ水、蜃気楼、かげろうも同種の現象である」と述べている[7]また、丸目信行は文献集『不知火』に、『不知火町永尾剣神社境内から阿村方面へ時間経過による不知火の変化』と題し、多数の写真を載せている[8]。
現在では干潟が埋め立てられたうえ、電灯の灯りで夜の闇が照らされるようになり、さらに海水が汚染されたことで、不知火を見ることは困難になっている[3]。

