両細川の乱

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両細川の乱
戦争戦国時代
年月日永正6年(1509年)- 天文元年(1532年
場所京都とその周辺
結果細川高国の自害、細川晴元足利義晴の和睦(堺公方の崩壊)
交戦勢力
細川澄元・晴元軍 細川高国軍
指導者・指揮官
細川澄元
細川晴元
細川政賢
三好之長
三好長秀
三好元長
ほか
細川高国
大内義興
畠山尚順
六角定頼
瓦林正頼
ほか
両細川の乱

両細川の乱(りょうほそかわのらん)は、戦国時代において、永正の錯乱を契機に勃発した細川京兆家家督、および室町幕府将軍の座を巡る内戦である[1][2][注釈 1]細川高国大内義興畿内の反三好氏勢力と、細川澄元晴元父子・三好元長阿波勢との間で、20年以上にわたって抗争が続いた。

この抗争は、足利将軍家を巻き込んで泥沼に突入していった。当初、京都を抑えた高国方は足利義稙を、対する澄元方は足利義澄を擁立していた。しかし、義澄の死後、高国が澄元方に大敗すると、義稙は澄元方に通じる。そのため、高国は義稙を追放し、新たな将軍として義澄の子・義晴を擁立した。一方、澄元の後継者・晴元は堺公方足利義維を擁立して、高国に対抗した。

やがて、晴元・義維陣営は高国・義晴陣営を破ったものの、義晴との和睦などを巡って内部対立が激化し、天文の錯乱が勃発することになった。

細川京兆家当主の細川政元は、修験道に凝って女人を近づけなかったので、後継者がいなかった[3]。そのため、九条家から細川澄之を迎えたほか、一門庶流の阿波守護家から細川澄元、さらに京兆家の分家である野州家から細川高国を養子として迎えた[4][5][6]

永正4年(1507年)6月23日、政元は京都において、内衆の香西元長薬師寺長忠によって殺害された(永正の錯乱[7]。そして、元長と長忠は澄之を京兆家の当主として擁立した[7]

だが、高国をはじめとする細川一門は、九条家出身である澄之の家督を認めず、8月に澄之やその与党を攻め滅ぼした(遊初軒の戦い[8]。その後、澄元が家督を継承したが、澄元は細川氏庶流の出身でしかなく、加えて阿波から上洛して2年ほどしかたっておらず、京都の細川一門にはなじみある人物ではなかった[9]。さらに、澄元に付き従ってきた三好之長ら阿波衆の専横も目立つようになり、高国ら細川一門は澄元に反発するようになった[9]

細川一門は九条家出身の澄之の排除には一致したものの、澄元と高国のどちらを惣領にするかでは決着をつけられず、以後両者は激しく争うこととなった。これを「両細川の乱」と呼ぶ[2]

経過

高国の家督継承

永正6年(1509年)3月17日、細川高国は伊勢神宮に参拝すると称し、京都を逃れ、伊賀仁木氏のもとに身を寄せた[10]。これは、細川澄元が自身に反発する細川一門に圧力をかけるため、高国を追い払ったに等しかった[9][1]

4月、高国は丹波内藤氏摂津伊丹氏と結び、挙兵した[1]。高国が軍勢を率いて伊賀から京都に迫ると、同月9日に澄元は三好之長と共に京都から甲賀に逃げた[9][1][11]。高国が上洛すると、細川一門や重臣による評議が開かれ、新たな惣領に選出された[9]

この頃、復権を目指す前将軍の足利義稙が周防大内義興と共に京都に迫っており、高国は将軍である足利義澄を奉じて京都を守らなくてはならなかったが、惣領として一門を掌握できておらず、また高国の惣領就任に反発する者もいた[12]。そのため、高国はこの状況で戦うことは不可能と考え、義稙に降伏することを決断した[12]。これは細川一門が義澄を見捨てることを意味していたため、4月16日に義澄は近臣らと共に京都を脱出し、近江の六角高頼の配下である九里氏の居城・水茎岡山城に入った[2][12][13]

4月末、義稙・義興が和泉に到着すると、高国はこれを出迎え、降伏を受け入れられた[14]

6月、前将軍の義稙が堺から京都に入り、7月には再び将軍となった[15]。そして、高国は細川氏の家督を象徴する右京大夫となった[16][17]

澄元の巻き返しと船岡山合戦

他方、6月に細川澄元と三好之長が再起を図って京都侵攻を企てるが、細川高国・大内義興によって撃退され(如意ヶ嶽の戦い)、阿波に逃亡した[18][19][注釈 2]

之長の子・三好長秀伊勢に敗走したが、北畠材親らに攻められ自害した[19]

10月、義稙が就寝中、何者かが御所に放った刺客によって襲われ、暗殺されかかる事件が起こった[20][19]。この事件は、劣勢からの巻き返しを図った義澄やその与党の仕業とされたことで、義稙はその報復を計画した[19][20]

永正7年(1510年)2月に高国らは近江に軍勢を指し向け、義澄の拠る水茎岡山城に進軍させた。だが、義澄に味方する近江の国人衆の反撃により、総崩れになって京都に引き上げた[21]

永正8年(1511年)6月、義澄を支持する澄元が阿波で挙兵し、四国から瀬戸内海を渡り、細川政賢細川尚春、播磨の赤松義村も味方につけ、高国の領国である摂津などを侵した[22][16]。高国はこれを迎撃したが、今回も苦戦し、8月上旬に総崩れとなった(芦屋河原の合戦[23]。河内でもまた、畠山尚順が澄元派に敗北するなど、形勢が悪化した[23][24]。これらの敗戦を受けて、京都は大混乱に陥った[23]

8月、高国・義興は劣勢に追い込まれ、義稙を擁して丹波に一旦撤退することを余儀なくされた[24][23]。京都を奪回した澄元方であったが、高国方は次第に勢力を盛り返し、京に迫りつつあった[25]

そのような状況下で、澄元方の擁する前将軍の義澄が病死する[26][27]。高国方は船岡山に陣取る澄元方を攻撃し、これに勝利した(船岡山合戦[24][28]

その結果、澄元方は細川政賢が自害するなど、多くの犠牲を出し、澄元は阿波に撤退した[19][29]

三好之長の進撃

永正14年(1517年)、澄元方の三好之長は淡路水軍を掌握するため、淡路に侵攻し、高国方に寝返っていた淡路守護の細川尚春は和泉の堺に逃亡した。

永正15年(1518年)8月、大内義興が周防に帰国した。義興は約10年在京して高国政権を支えていたが、在京することによる重い負担や、出雲尼子氏が台頭してきたこともあって帰国せざるを得ず、高国は最大の軍事力を失った[30][31]

永正16年(1519年)5月、細川尚春は澄元に降るが、之長に殺害される[31]

11月9日、澄元・之長らが摂津の兵庫津や尼崎に渡海した[32]。そして、19日に大山崎惣中が澄元や之長に味方するなど、徐々に味方を増やした[32]

そして、澄元・之長は瓦林正頼(河原林政頼)の越水城を包囲する[32]。越水城は高国が四国勢の襲来を予想し、築城させたものであった[32]。これに対し、高国は細川尹賢池田城に下して対峙させたほか[32]、自らも摂津に出陣した[33]

永正17年(1520年)2月3日、越水城が開城し、16日に澄元・之長方が尼崎で高国方を破り、総崩れとなった[33][32]。そのため、義稙は澄元側に通じ、高国を見限った[34]

2月17日、高国は京都に戻ると[33]、翌18日に義稙と面会し、近江の六角定頼を頼ることになったので、自身と同行することを求めた[34][35]。だが、義稙に拒否されたため、高国は義稙を伴わず、自身の軍勢と共に近江坂本に下向せざるを得なかった[32][35][36]

3月、三好之長率いる澄元方の軍勢2万が入京した[37][38]。だが、之長が京都を掌握したにも関わらず、澄之は病床にあったため、上洛できずにいた[39][32]

高国の復権と澄元の死

高国は近江坂本に逃走したものの、近江の六角定頼の軍2万を味方につけると[40]朽木氏や越前の朝倉氏、美濃の土岐氏、丹波の内藤氏も援軍として加わった[32]

5月、高国は京に侵攻し、澄元・之長方を破る(等持院の戦い)。之長は高国に捕縛されたのち、細川尚春の養子・彦四郎の要求で自害に追い込まれる[41]

6月、澄元は上洛することなく、阿波の勝瑞城で病死した[42][43]

永正18年(大永元年、1521年)3月、義稙が高国との対立で出奔すると[44][45]、高国は新たに足利義晴(義澄の子)を12代将軍として擁立した[45][46]

9月、赤松氏重臣の浦上村宗が、幽閉していた主君の赤松義村を暗殺した。

11月、義晴の元服儀礼のために高国は管領に就任するが、儀式終了後の12月には辞任している(一次史料から確認可能な室町幕府における最後の管領在職)。

大永4年(1524年)10月、高国方の 香西元盛柳本賢治らが阿波勢の残党を和泉で破る。

堺公方の成立と高国の死

大永6年(1526年)7月、高国の従弟で丹波守護の細川尹賢の讒言により、高国が香西元盛を謀殺する事件が発生する[47][48]。これをきっかけに、元盛の兄弟の波多野元清柳本賢治が阿波の細川晴元三好元長と連携して丹波で挙兵した[47][48]。高国は細川尹賢を丹波に侵攻させたが、敗退した。

大永7年(1527年)2月、波多野元清・柳本賢治らが京に侵攻し、高国・尹賢方は桂川で迎え撃つが敗れ、義晴を擁して近江坂本に逃亡した(桂川原の戦い[49][50]。そして、義稙の養子・足利義維(義澄の子で義晴の弟)を擁する晴元・元長は堺に進出し、京の支配を行った(堺公方[49][50]

享禄元年(1528年)、高国・尹賢は京奪回を試みるが、晴元に敗れる。この敗戦を機に、尹賢は落ち目になった高国を見限り、晴元方に寝返った[注釈 3]

享禄3年(1530年)8月、高国は浦上村宗と連携して摂津に侵攻するが[51][52]、翌年(1531年)3月に三好元長の反撃を受けて、摂津中嶋で膠着状態となる(中嶋の戦い)。

6月4日、高国・村宗方が天王寺の戦いで元長方に敗れ、村宗は天王寺で討ち死し、高国も尼崎に逃走した(大物崩れ[52]。だが、高国は捕らえられ、8日に自害させられた[52]。これにより、両細川の乱は終結した。

晴元と元長の対立

享禄元年(1528年)ごろから晴元の陣営内部では、細川高国方に属する将軍の義晴との和睦を唱える松井宗信・柳本賢治らと、義晴から将軍職を剥奪し、堺公方の義維を将軍に就けることを図る三好元長・畠山義堯らとの対立が深まっていた。さらに両者は京都の支配権を巡っても対立していた[53]

享禄2年(1529年)、晴元は松井宗信らの意見を採用し、高国を無視して義晴のみと和睦することを決断。これに反発した三好元長は阿波へ帰国したが[54]、晴元側近の可竹軒周聡の反対により、和睦は頓挫した。

享禄3年(1530年)6月、柳本賢治が播磨陣中で死去[55]すると元長が復権し、失脚した松井宗信は摂津に帰国した。

享禄4年(1531年)6月、晴元の陣営は高国を敗死させたが、共通の敵を失ったことが原因で、内部分裂が再燃する。木沢長政は畠山義堯の家臣でありながら、主家を飛び越えて晴元からの寵愛を受けていた。元長は長政の勢力伸長を危険視し、長政の主・畠山義堯と結託して対抗する。対する長政は、元長と対立する三好一門・三好政長と共謀し、讒言によって晴元と元長の離間に成功した。

享禄5年(1532年)1月、元長が阿波勢を率いて晴元家臣の柳本甚次郎(賢治の子)を滅ぼしてしまい、晴元と元長の対立は決定的となっていた[56]。このとき、晴元の従弟で阿波守護の細川持隆(氏之)が仲介して、晴元と元長は一旦和睦した[57]

天文元年(1532年)6月、晴元は証如や木沢長政と結び、一向一揆に堺の元長を攻めさせる。元長は敗れて自害。晴元は将軍義晴と和睦する。この後、天文の錯乱が勃発する。

脚注

参考文献

関連項目

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