船岡山
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歴史
平安京の中軸線である朱雀大路(現在の千本通)の真北に位置している。そのため、推論ではあるが造都に際して船岡山は南北軸の測量基準点となったとの説がある。また頂上付近には露頭した岩が見られるため造都以前から磐座(いわくら)として信仰されていたとする説がある[注釈 2]。
四神(玄武、青龍、白虎、朱雀)に対応する「山川道沢」があることにより平安京が選地されたという、平安京四神相応説の「玄武(=山)」にあたると言われ定説化している。一方で、他の山を充てる説[注釈 3]や、また「山川道沢」は宅地選地に係る四神相応の条件であるという批判や、そもそも「四神相応」が選地の条件であったかについての疑義もある[6]。(→詳細は「四神相応#平安京」を参照。)
古来、船岡山は景勝の地であった。その美観が尊ばれ、清少納言も『枕草子』231段にて「岡は船岡」と、思い浮かぶ岡の中では一番手として名前を挙げている。一方では都を代表する葬送地でもあり、兼好法師も『徒然草』137段にて「(都の死者を)鳥部野、舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし」と述べている。
保元元年(1156年)に行われた保元の乱の後、敗北した源為義とその子供たちがここで処刑されている。
応仁元年(1467年)、応仁の乱の際に西軍を率いる備前国守護の山名教之や丹後国守護の一色義直らが船岡山に船岡山城を建築して立て籠もった(西軍の陣地となった船岡山を含む一帯はそれ以来「西陣」の名で呼ばれるようになる)。織田信長の死後豊臣秀吉が正親町天皇の勅許を受け、船岡山に天正寺という信長の廟を建設する予定であったが、石田三成の献策により頓挫する。が、一帯は江戸時代を通じて信長の霊地として保護された。
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明治2年(1869年)、明治天皇の宣下により、翌明治3年(1870年)東京の天童藩知藩事織田信敏邸内と織田家の旧領地である山形県天童市に建勲社が造営され、明治8年(1875年)に別格官幣社に列格した。しかし、改めて天正時代以来の由縁がある船岡山に神社を移すこととなり、明治13年(1880年)9月、社殿が竣工して東京より遷座し、建勲神社が創設される。昭和6年(1931年)には山全域が風致地区に指定され、昭和10年(1935年)には「船岡山公園」として市民の憩いの場となるように整備される。しかし、戦前まで田園風景が広がっていた一帯も戦後は開発の波に晒され、2000年代には船岡山斜面に高層マンションを建設する計画が持ち上がり、建築計画の修正が行われた。
船岡山公園
船岡山公園(ふなおかやまこうえん)は、船岡山に位置する都市公園(地区公園)である。1932年(昭和7年)11月28日に指定された京都市の都市計画公園第1号であり[7]、 開設年月日は1935年(昭和10年)11月1日、面積は56,284平方メートルである[8]。
開設当時からの設備として「ラジオ塔」があり、長年受信機とスピーカーが外された状態だったが、「船岡山ラジオ体操クラブ」が修理を求める署名や要望書を京都市に出していた。2015年(平成27年)にクラブが機器と設置費を負担する形での修理を市が受諾し、全国で唯一、当時の姿のまま拡声器と受信機を再設置したラジオ塔となった[9]。また、2025年(令和7年)には、京都紫野ロータリークラブによる社会貢献の一環として、外壁の洗浄、傾きの修正などが行われた[10]。
文化財等指定
ギャラリー
- 山頂から左大文字方向を望む
- 山頂部の削平面(船岡山公園)
- 船岡山石標
