中井三郎兵衛 (4代)
From Wikipedia, the free encyclopedia
なかいさぶろべえ (よんだい) 中井三郎兵衛 (4代) | |
|---|---|
| 生誕 |
1851年12月25日 |
| 死没 | 1932年3月27日(80歳没) |
| 住居 | 東京、京都 |
| 国籍 |
|
| 別名 | 中井慈眼 |
| 民族 | 日本人 |
| 職業 | 実業家、政治家 |
| 活動期間 | 19世紀 - 20世紀 |
| 団体 | 三井家(別家) |
| 著名な実績 | 京都紙商組合創設 |
| 影響を受けたもの | 三井家 |
| 影響を与えたもの | 京都紙商組合 |
| 活動拠点 | 京都、東京 |
| 純資産 | 素封家 |
| 肩書き |
京都四天王(田中源太郎・内貴清兵衛らと共に) 京都府会議員 京都織物役員 東京印刷役員 京津電気軌道役員 王子製紙役員、 |
| 子供 | 中井誠三郎 |
| 親 | 中井三郎兵衛 (3代) |
| 親戚 | |
| 補足 | |
中井 三郎兵衛 (4代)(なかい さぶろべえ、嘉永4年12月3日(1851年12月25日)[1] - 昭和7年(1932年)3月27日[2])は、明治から昭和時代前期の実業家。田中源太郎、内貴清兵衛らとともに、京都四天王と呼ばれた。中井家は、三井家別家の家系。
3代目中井三郎兵衛に子がなかったため、1853年(嘉永6年)、3歳の時に河内国北河内郡の小原家から中井家へ養子に入った。1863年(文久3年)、13歳で三井家京本店に奉公し始め、1866年(慶応2年)に辞している。三井での奉公後、家業である「越三商店」を3代目とともに盛り立て、合名会社、株式会社へと改組、取扱商品を和紙から洋紙へと広げ、経営の近代化に努めた。1870年(明治3年)、三郎兵衛の名跡を相続した。和洋紙問屋・中井商店(現・日本紙パルプ商事)の社長を務めつつ、1884年に京都紙商組合を作り、京都織物・東京印刷・京津電気軌道・王子製紙などの役員、京都府会議員(明治14年5月からの2年間と同21年からの3年間[3])及びを京都市会議員(明治34年[3])を歴任した。慈眼には、東京府(東京市)日本橋区に居所[4]、京都に居然亭(現在は一部のみ残存[5])と呼ばれる広大な別荘[6]があり、さらに居然亭の南東側に新別荘を設けた[6]。この新別荘の庭園は後年、京都市指定・登録文化財(名勝)[6]となった。
→「小川治兵衛 § 著名な作庭園」、および「南禅寺界隈別荘」を参照