中山茶臼山古墳
岡山市北区にある古墳
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概要
岡山市街地から西方、独立丘陵「吉備の中山」の山上に築造された大型前方後円墳である。現在は墳丘が極めて良好に遺存する[1]。現在は宮内庁の治定墓として同庁の管理下にあり、2008年度(平成20年度)に墳丘測量調査などが実施されている[1]。
墳形は前方部が開く「バチ形」の前方後円形で、前方部を南方向に向ける[1]。墳丘は2段築成[1]。墳丘外表では葺石が確認されているほか、出土埴輪から埴輪列の存在が推測される[1]。その他の詳細は明らかでない。
築造時期は、古墳時代前期頃と推定されるが、資料に欠け具体的な築造時期は明らかでない[2]。性格としては、吉備津を望む臨海性と背後の平野を望む内陸性の両面が指摘される[3]。なお、吉備の中山は後世の備前国・備中国の境界になるが、山上に位置する本古墳の古墳域はその境界線上にあたる[4][1]。またこの吉備の中山では、初期古墳の矢藤治山古墳や、前期古墳の尾上車山古墳(国の史跡)の築造も知られている。
遺跡歴
墳丘
被葬者
中山茶臼山古墳の実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁では第7代孝霊天皇皇子の大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと、吉備津彦命)の墓に治定している[6][7]。この大吉備津彦命について、『古事記』では本の名を「比古伊佐勢理毘古命(ひこいさせりひこのみこと)」、亦の名を「大吉備津日子命」とし、弟の若日子建吉備津彦命とともに吉備国を平定したとする[8][9]。また『日本書紀』では、本の名を「彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)」、亦の名を「吉備津彦命」とし、四道将軍の1人として西道に派遣されて平定したとする[8][9]。両書には大吉備津彦命の墓についての記述はないが、1874年(明治7年)に本古墳がその墓に治定され、それが現在まで踏襲されている[1]。

なお吉備の中山の山麓では、大吉備津彦命を祭神とする吉備津神社(岡山市北区吉備津、備中国一宮)、吉備津彦神社(岡山市北区一宮、備前国一宮)の所在が知られる。特に前者の吉備津神社は国史にも「吉備津彦命神」として見える霊廟になり、その社伝で大吉備津彦命は吉備の中山の麓に茅葺宮を建てて住み、281歳で亡くなって山頂に葬られたと伝えている。


