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孝霊天皇

日本の伝説上の天皇 From Wikipedia, the free encyclopedia

孝霊天皇(こうれいてんのう、旧字体: 孝靈天皇、孝安天皇51年 - 孝霊天皇76年2月8日)は、日本の第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日 - 孝霊天皇76年2月8日)。『日本書紀』での名は大日本根子彦太瓊天皇。欠史八代の1人であるが欠史八代の中では唯一『古事記』に事績が記されている。実在性については諸説ある。

誕生 孝安天皇51年
概要 孝霊天皇, 第7代天皇 ...
孝霊天皇
『御歴代百廿一天皇御尊影』より「孝霊天皇」

在位期間
孝霊天皇元年1月12日 - 孝霊天皇76年2月8日
時代 伝承の時代
先代 孝安天皇
次代 孝元天皇

誕生 孝安天皇51年
崩御 孝霊天皇76年2月8日 128歳
陵所 片丘馬坂陵
漢風諡号 孝霊天皇
諱 大日本根子彦太瓊天皇(紀)
大倭根子日子賦斗邇命(記)
父親 孝安天皇
母親 押媛(孝昭天皇皇孫)
皇后 細媛命
夫人 春日千乳早山香媛
倭国香媛
絙某弟
真舌媛
子女 大日本根子彦国牽尊(孝元天皇)
千千速比売命
倭迹迹日百襲姫命
日子刺肩別命
彦五十狭芹彦命
倭迹迹稚屋姫命
彦狭島命
稚武彦命
皇居 黒田廬戸宮

欠史八代の1人。
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略歴

日本足彦国押人天皇(孝安天皇)の皇子。母は皇后で天足彦国押人命の娘の押媛(忍鹿比売)。兄弟として『古事記』では同母兄に大吉備諸進命の名が見える。26才で皇太子となる。

父帝が崩御した年の12月、黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に都を移す。それまでの山裾にあった宮と異なり大和盆地の中央に位置する。

翌年の1月に即位。

即位2年、磯城県主(または十市県主)大目の娘の細媛命を皇后とし、彦国牽尊(後の孝元天皇)を得た。また春日千乳早山香媛、倭国香媛らを妃にしている。

倭国香媛との間には御間城天皇(崇神天皇)の時代に四道将軍となった彦五十狭芹彦命、疫病や反乱を収めるのに重要な役割を果たした倭迹迹日百襲姫命を得た。

即位36年 大倭根子日子国玖琉命を皇太子として指名。

即位76年、崩御。

名

  • 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと):『日本書紀』
  • 大倭根子日子賦斗邇命(おおやまとねこひこふとにのみこと):『古事記』
  • 大日本根子彦太瓊天皇(おおやまとねこひこふとにのすめらみこと):『伊賀国風土記逸文』

漢風諡号である「孝霊」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる[1]。

事績

『日本書紀』にはほぼ系譜記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。

『古事記』には系譜記載のほかに大吉備津日子命と若建吉備津日子命による吉備平定が簡潔に書かれている。

系譜

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2 綏靖天皇
 
神八井耳命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3 安寧天皇
 
〔多氏〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4 懿徳天皇
 
息石耳命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5 孝昭天皇
 
天豊津媛命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6 孝安天皇
 
天足彦国押人命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7 孝霊天皇
 
〔和珥氏〕
 
押媛
(孝安天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8 孝元天皇
 
倭迹迹日百襲姫命
 
吉備津彦命
 
稚武彦命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彦太忍信命
 
9 開化天皇
 
大彦命
 
 
 
 
 
〔吉備氏〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
屋主忍男武雄心命
 
 
 
 
 
 
〔阿倍氏〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武内宿禰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
〔葛城氏〕
 
 
 
 
 

后妃・皇子女

天皇略系図(初代 - 第10代) SVGで表示(対応ブラウザのみ)

(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

年譜

『日本書紀』の伝えるところによれば、以下の通りである[2]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

宮

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』『古事記』とも黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)[4]。

宮の伝説地は『和名類聚抄』の大和国城下郡黒田郷と見られ、現在の奈良県磯城郡田原本町黒田周辺と伝承される[4][3]。同地では、法楽寺境内に「黒田廬戸宮阯」碑が建てられている(北緯34度34分4.77秒 東経135度46分30.21秒)[5](詳しくは「庵戸宮」を参照)。

陵・霊廟

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陵(みささぎ)の名は片丘馬坂陵(かたおかのうまさかのみささぎ)。宮内庁により奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目の丘陵に治定されている(北緯34度35分22.56秒 東経135度42分6.19秒)[6][7][8]。宮内庁上の形式は山形。

陵について『日本書紀』では前述のように「片丘馬坂陵」、『古事記』では「片岡馬坂上」の所在とある他、『延喜式』諸陵寮では「片丘馬坂陵」として兆域は東西5町・南北5町、守戸5烟で遠陵としている[8]。しかし後世に所伝は失われ、元禄の探陵で現陵に治定された[8]。

広島県府中市栗柄町にある村社南宮神社には吉備津彦命が父帝孝霊天皇を偲んで築いたとされる御陵がある。

皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族と共に孝霊天皇の霊が祀られている。

鳥取県日南町や伯耆町に複数ある樂樂福神社(ささふくじんじゃ)は孝霊天皇を祀る霊廟と云われている[9][10][11]。

伊賀国風土記逸文

伊賀国風土記逸文には記紀には記載のない孝霊天皇にまつわる事績が残されている[12][13][14]。

伊賀国号・伊賀津姫

伊賀国はかつて伊勢国に属していた。大日本根子彦太瓊の天皇(孝霊天皇)の御代の63年癸酉(BC228年)に独立させ伊賀国とした。伊賀という名は、もともと伊賀津姫(伊我臣の祖・大伊賀彦命の娘)が治めていた郡の名であった。ゆえに郡名を国名とした。国の範囲は、西は高師川まで、東は家富の唐岡まで、北は篠嶽まで、南は中山までである。土地はほどほどに肥えており、民は山川を用立てて、生業することができる。樹木はほどほどの木材がとれ、有名な石、珍しい禽獣や鳥類がとれる

海東諸国紀

1471年に李氏朝鮮の王成宗の王命により朝鮮王朝最高の知識人である申叔舟が撰進した歴史書『海東諸国紀』には記紀には記載のない孝霊天皇の御代の事績が記されている[15]。

孝霊天皇 孝安天皇の太子なり。元年は辛未。七十二年壬午、秦の始皇 徐福を遣わし、海に入り仙福を求めしむ。遂に紀伊州に至りて居す。在位七十六年。寿百十五。

神皇正統記

南北朝時代に北畠親房によって編纂された歴史書『神皇正統記』には記紀には記載のない孝霊天皇の時代に起こった事柄と北畠親房自身による考察が記されている[16][17]。

第七代孝霊天皇は孝安天皇の皇太子。母は押媛といい天足彦国押人命の娘である。辛未の年に即位され、大和の黒田廬戸宮におられた。

この天皇の三十六年丙午にあたる年、中国では周の国が滅んで秦に替わった。始皇帝の四十五年乙卯、始皇帝が即位した。この始皇帝は仙人の方術を好み、不老不死の薬を日本に求めてきた。日本からは三皇五帝の遺書といわれる古典を中国に求めたところ、始皇帝は悉くこれを送ってきた。始皇帝の三十五年、秦は焚書坑儒を行ったので、中国では失われた孔子の全経典が日本に残っているといわれる。このことは中国の書物にみえる。

わが国では神功皇后が三韓を平定されてから、異国と国交を開き、応神天皇の御代に儒書などの経史の学が渡ってきたと申し伝えられている。孝霊天皇の御代から日本に文字があったということは聞いたことがないが、上古のことは正確に記録されてはいないからだろうか。応神天皇の御代に渡来した経史の書さえ現在残っておらず、聖武天皇の御代に、吉備真備大臣が入唐して伝えた本が現在流布している。このことから孝霊天皇の御代から文字が伝えられたという説もあながち疑う必要はないのかもしれない。

さて、中国ではこの日本のことを君子不死の国ともいっている。孔子は世が乱れてしまったことを嘆いて、「九夷に住みたい」と言われた。日本はその九夷のひとつである。異国では日本を「東夷」といっているが、これは我が国が異国のことを「西蕃」ということと同じことである。また、中国で四海というのは東夷・南蛮・西羌・北狄のことである。南は蛇の種族だから虫に従う字を、西は羊だけを飼う国だということで羊に従う字を、北は犬の種族なので犬に従う字をあてているのである。ただ、東国だけは仁徳があり長寿の国なので、「大」と「弓」に従う「夷」という字を用いるとのことである。

孔子のときですら、我が国のことを知っていたのだから、秦の時代に我が国と通行していたことは怪しむに足りないのではなかろうか。

孝霊天皇は天下を治めなさること七十六年、百十歳であられた。

伝承

鬼住山の鬼

鳥取県の伯耆町には孝霊天皇にまつわる日本最古の鬼退治伝説がある[18]。

樂樂福神社(ささふくじんじゃ)の由緒縁起によると、かつて溝口町にある鬼住山(きずみやま)を根城にして暴れ回っていた鬼集団があった。この地を訪れた孝霊天皇は南の笹苞山(さすとやま)に陣を張った。まず笹巻きの団子を3つ置いて鬼の兄弟の弟の乙牛蟹をおびき出し矢で射殺した。次に笹の葉を刈り取って山積みして風で飛ばし、兄の大牛蟹達の体にまとわりつかせた上で火を放った。大牛蟹は蟹のように這いつくばって命乞いをした。大いに喜んだ里人達は笹の葉で屋根を葺いた神社を作り、これが樂樂福神社の始まりということである。天皇はこの地に崩御するまで留まったともいう[19]。また社伝では孝霊天皇は幼少時、樂樂清有彦命(ささきよありひこのみこと)称し、笹福と号された。古くは砂鉄生産の守護神として、また日野郡開拓鎮護の総氏神として日野大社笹福大明神と尊称され崇敬された、と伝わっている[20][19][21]。

鬼林山の鬼

鳥取県の日南町にも孝霊天皇による鬼退治の伝説が残っている。樂樂福神社(ささふくじんじゃ)の社伝によると、鬼林山(きりんざん)に蟠踞する「牛鬼(ぎゅうき)」の名で恐れられる一団が里人を悩ます由を聞し召され、皇子達や随従の臣下を率いて彼の凶賊を悉く退治された。現今、境内近くにある鬼塚はその首魁を埋めた場所と伝わっている[19]。

黄魃鬼

樂樂福神社(ささふくじんじゃ)の社伝によると、孝霊天皇は伯耆国に巡行する前に隠岐國に渡り、黄魃鬼(こうばっき)という鬼を退治したとの伝承が残っている[19][22]。

蟹魁師

『伯耆志』によると、孝霊天皇が鬼林山にて邪鬼を征伐した頃、備中国に蟹魁師(かにたける)という豪族がおり天皇を襲おうと画策した。歯黒皇子(彦狭島命)は霞ノ郷に関を作り、これを待ち構えたが蟹魁師は戦わずして降参したとされる[23]。

石蟹魁荒仁

樂樂福神社(ささふくじんじゃ)の社伝によると、孝霊天皇の西国巡幸の最中、備中國に石蟹魁荒仁(いしがたけるこうじん)という首領がおり、天皇が近郷に居ることを知るやいなや國中の凶徒を集め、兵を起こして天皇を襲ったとされる。しかしすぐに此の事を聞いた孝霊天皇は歯黒皇子(彦狭島命)を軍将として数多の兵を従へこれを征伐したという。その後、皇子の軍門に下り、幕下に属したという[19][24][22]。

朝妻と孝霊山

伯耆の進氏に伝わる『由縁世代抄』や紀成盛長者家に伝わる『紀氏譜紀』には孝霊天皇が伯耆国妻木郷に妻問をした逸話が残されている[21][23]。

「孝霊天皇は伯耆国妻木郷に朝妻という美女が住んでいることを聞き、宮女として召し抱え寵愛した。しかし朝妻は故郷に残した年老いた母親のことが気がかりでならなかったため、天皇に上奏し暫くの間の暇を願い母を養うため帰郷した。朝妻に去られた天皇は日に日に彼女への慕情が募り、ついには妻木郷まで下って行った。妻木郷では天皇が臨幸なされたため大急ぎで淀江の浜から山の上に清浄な石を運び、宮殿を建てた。この山に朝妻と孝霊天皇が仲睦まじく暮らしたため、ここを孝霊山と呼ぶようになったといわれている。そのうち二人の間に若宮がお生まれになり鶯王と名付けたとされる[21][23]。

庵戸姓の由来

宮名の「庵戸宮」に関連して、奈良県や和歌山県を中心に「庵戸(いおと、あんど)」という名称の希少姓が数世代存在し、自らを孝霊天皇の第3皇子の末裔と代々言い伝えられたと言われている。ただし、「第3皇子」は名前が記録されている5人の皇子(大日本根子彦国牽尊、日子刺肩別命、彦五十狭芹彦命、彦狭島命、稚武彦命)のうちの誰のことを指すのかは明らかでない。しかし愛媛県松山市東垣生町にある奥土居神社の社伝や河野氏の系譜を記した『予章記』によると孝霊天皇第三皇子は彦狭島命と書かれている[25][26]。

富士山噴火

駿河国名神大社富士本宮浅間大社に伝わる「富士本宮浅間社記」によれば、第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとある[27]。孝霊天皇の即位したBC290年からBC215年頃は新富士火山の活動期であり[28]、噴出源および年代が明らかになっていない溶岩流も多くあることから事実であった可能性も指摘される。詳しくは「富士山の噴火史」を参照のこと。

また平安時代前期に都良佳によって書かれた『都良佳富士山記』にも、孝霊帝の4年(BC287年)に、淡海国では地面が裂けて湖水となり、同時に一夜にして富士山が出現したという伝承が記載されている[29]。奥石神社の社伝『神社本紀』にも同様の内容が記されており、その後孝霊天皇5年(BC286年)石辺大連という人物がその地裂れを止めようと思い、神に助けを求めて杉や松、檜などの木々を多く植樹したところ大森林となり、齢百数十まで生きることができたのでこの森を「老蘇森」と名付けたという伝承も残っている[30]。『和漢三才図会』69巻にも孝霊天皇5年(BC286年)6月に江州の湖が一夜に湧出してその土が富士山となったと記されている[31]。

月支国王彦玻瓊の来寇

出雲国式内社日御碕神社の社伝によると、「孝霊天皇61年(BC230年)11月15日、月支国(正史三国志魏志馬韓伝によると辰王が都を置いた国とされる)の彦玻瓊(ひこはね)が兵船数百艘を引き連れて、出雲の日御碕に攻めてきた。これを小野検校家の祖である天葺根命11世孫の明速祇命が防戦した。須佐之男命の神徳により大風が吹いたこともあり彦玻瓊の大軍は悉く海の藻屑となり、明速祇命は月支国の軍勢を撃退することができた。このとき彦玻瓊の兵船が艫綱を結び付けていたのが今も沖合に見える艫島であると伝わっている。」また外敵来寇の逸話は八束郡島根町加賀の海岸にもある。加賀浦の一部に赤浦という場所があり、これはかつて妄胡利の兵船が押し寄せて来たところで、そのときには加賀大明神がこれを撃退したと伝わっている。敵の大軍はみな血煙を上げ倒れ、あたりの岩がすべて真っ赤になったのでこの場所を赤浦と呼ぶようになったと伝わっている[32]。

この逸話はのちに神楽に仕立て上げられ、出雲神楽では「彦張」「日御碕」、石見神楽や隠岐神楽では「十羅」として舞われている。ただし出雲神楽では日御碕神社下の宮の祭神・天照大御神が弓矢を執って追い払われる話になっている[32]。

渤海国来寇

出雲国式内社爾佐神社の社伝によると、加賀の東・美保関千酌浦に渤海国の大軍が来寇したと伝わっている。このときは爾佐神社の祭神である都久豆美神が勇戦奮闘なされた。戦の折、たちまちにして1000人の敵の首を獲ったため、ここを千首というようになり、その後千酌と呼ぶようになったとされる。また海岸に血ノ輪崎というところがあり、その沖に白カスカ島・黒カスカ島という島があるが、これは戦の際白鬼と黒鬼の首を獲った場所と伝わっている[32]。爾佐神社の祭神である都久豆美神は出雲国風土記に記載がある神である[33]。

賊徒襲来

福岡県糸島市雷山にある縣社雷神社社伝によると第6代孝安天皇(BC392-291)から第11代垂仁天皇(BC29-99)の御代に至るまで異国の賊徒からの七度にわたる襲来があり、当社の神である層增岐大明神が雷雨を降らせ異賊を降伏させたと伝えられている[34]。

倭迹迹日百襲姫命

讃岐国延喜式内社水主神社の社伝によると、「孝霊天皇の御代(紀元前290年ごろ)倭国大乱により黒田庵戸宮を出立した倭迹迹日百襲姫命が8歳の時に水主に居を定めた。百襲姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けた」と記されている[35]。また孝霊天皇36年正月(BC255年)、倭迹日襲姫は夫がいないのに妊娠し子を産んだ。その子は胞衣が破れず玉のようであり、それはその夜飛んで空に昇り星になった、という伝承もある[36]。

彦五十狭芹彦命

彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)が吉備平定にあたって温羅(うら)という鬼を討ったという伝承が岡山県を中心として広く知られる。これによると、温羅は鬼ノ城に住んで地域を荒らしたが、吉備津彦命と稚武彦命は犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)・樂樂森彦命(ささもりひこのみこと)・留玉臣命(とめたまおみのみこと)という3人の家来とともに討ち、その祟りを鎮めるために温羅の首を吉備津神社の釜の下に封じたという。この伝説は物語「桃太郎」のモチーフになったともいわれる。吉備地域には伝説の関係地が多く伝わっているほか、伝説に関連する吉備津神社の鳴釜神事は上田秋成の『雨月物語』中の「吉備津の釜」においても記されている[37]。

稚武彦命

桃太郎伝説は孝霊天皇皇子稚武彦命が綾南町陶の猿王・岡山の犬島・鬼無の雉ガ谷の三人の勇士を従えて海賊退治をおこなったという話が元であるという説がある[38]。稚武彦命は吉備臣・吉備氏の祖であると『新撰姓氏録』に記されている。

彦狭島命

鳥取県日野郡日南町の樂樂福神社の社伝によると、彦狭島命は母親である皇妃絙某弟が妊娠してから3年以上経過してからようやく誕生したが、その時にはすでに歯も髪も黒々と生え揃い、凛々しく不敵な面構えであったため元服するまでは歯黒皇子と呼ばれていたという逸話が伝わっている[39]。歯黒皇子(彦狭島命)は武勇に優れ勇猛果敢であったため、孝霊天皇は巡行の際は必ず皇子を伴っていたとされる[22]。

また河野氏の系譜を記した『予章記』には開化天皇の御代、土佐で賊徒が蜂起したため孝霊天皇皇子の彦狭島命が勅命により伊予国に派遣されたと記されている[40]。愛媛県松山市東垣生町にある奥土居神社社伝によると伊予国の豪族である河野氏の祖先をされる孝霊天皇第三皇子彦狭島命が興居島で御子小千命誕生の時、胞衣(臍の緒という説もある)を箱に納め海上に流すとその箱が今出の海岸に漂い着いた。これを拾った漁師が持ち帰って机の上に安置した夜「この箱を清らかな土地に埋め造化の神をあわせ祭ればわが霊は永く庶民を見守り子を授け安産させるであろう」と神のお告げがあった。そこでこの土地の人々が社殿を建て臍緒神としてお祭りしたところ霊験あらたかで、お陰を受ける人が多かったと伝えられている[26]。

日子刺肩別命

日子刺肩別命は越国遠征の斥候として砺波地方に派遣され、此の地をはじめて開拓し利波臣の祖となったとされる[41]。砺波市と南砺市にある越中国式内社荊波神社では主祭神として祀られている[42]。

鶯王

伯耆の進氏に伝わる『由縁世代抄』によると、孝霊天皇と妻木郷の朝妻との間に生まれた鶯王という若宮がおり、鶯王にまつわる鬼退治伝説が記されている。孝霊天皇は日野郡の鬼住山に鬼が棲んで人々が苦しんでいる由を聞かれ、鬼の征伐を計画した。そのとき紀氏の大連が征伐の総大将は鶯王が適任であることを進言なされた。天皇は鶯王を総大将とし鬼の征討に向かわせた。紀氏は軍の先頭に立ち鬼の征討に大いに貢献したため天皇から進の姓を賜ったとされている[21][23]。

福媛命

鳥取県日野郡日南町の宮内樂樂福神社や生山神社、印賀樂樂福神社など複数の神社の社伝によると皇后細媛命との間に福媛命という皇女がいたことが記されている。皇女は日南町生山で生まれ、15歳のとき日南町印賀の地でえんどう豆の収穫時に支えの竹で目をつき、その傷が原因で亡くなったとされる。印賀樂樂福神社背後の山は貴宮山といわれ、山中に福媛の御陵墓と称する箇所がある。また戒めとして印賀の住人は竹を植えず、また竹の箸を使わないという[24][43]。

足立神社

武蔵国式内社足立神社の論社のひとつ埼玉県さいたま市西区にある足立神社は、孝霊天皇の御代の創建でのちに日本武尊が東征の折に当地に立ち寄り素戔嗚尊を勧請したと伝わっている[44]。

御上神社

近江国延喜式内名神大社御上神社社伝によると、孝霊天皇6年(BC287年)六月十八日に御祭神天之御影神が三上山に御降臨遊ばされ、それから神主である御上祝等は三上山を清浄な神霊の鎮まる厳の磐境と斎定めて祀ったことが縁起であるとしている[45]。

奥石神社

近江国式内社奥石神社の社伝によると、当社は崇神天皇の御代、四道将軍を差遣わした時、吉備武彦が武運祈願を行った場所であり、孝霊天皇30年(BC261年)に石部大連と云う翁が天神地祇を祀る社壇を築いたことに始まる、と記されている[46]。

春日神社

滋賀県彦根市松原町にある春日神社社伝によると、孝霊天皇5年(BC286年) 何方よりか白鹿来り境内を馳回り死す、諸人之を異とし、此の地に一宇を建立して神と崇尊す、とある[47]。

劔神社

福井県丹生郡越前町織田にある越前国式内社劔神社の社伝によると、当社は孝霊天皇の御代、伊部の郷の住民が素戔嗚尊の神霊を座ヶ岳の峰に祀ったことにはじまると伝えられる。その後、第11代垂仁天皇の御代に天足彦国押人命の後裔である伊部臣という郷民の長が五十瓊敷入彦命が鳥取川上宮で作らせたという神剣を、素戔嗚尊の御霊代として奉斎し「剱之大神」と称えて崇めたと伝えられる[48][49]。

阿須賀神社

和歌山県新宮市阿須賀にある阿須賀神社社伝によると、当社は孝昭天皇53年(BC423年)の創始で、孝霊天皇6年(BC287年)に秦の徐福が始皇帝の命により不老不死の仙薬を求め、当神社の裏山である蓬莱山(飛鳥山)に到着したとされる逸話が残されている[50]。

多里神社

鳥取県日野郡日南町新屋にある村社多里神社社伝によると、鎮座の山を御笠山といい、この山に孝霊天皇が稲を積せられし事績あり、という伝承が残されている[24]。

宮崎神社

伯耆国八橋郡旧郷社宮崎神社の口伝によると、かつて当神社周辺は入海で潮が満ちれば往来が出来ず、住民は困難していた。孝霊天皇の御代に皇子大日本根子彦国牽尊が之を解消しようと伊弉諾尊・伊弉冉尊を奉斎されたのが本社の始まりと云う[51]。

八幡磨能峰宮

穴門国総社八幡磨能峰宮の社伝によると、当社は孝霊天皇の御代に天照大神・蛭子大神の二柱の神を奉祀したのがはじまりとされている。宇周宮(うすのみや)又は磨能峰宮(うすのみねのみや)とも称した[52]。

伊豫豆比古命神社

伊予国延喜式内社伊豫豆比古命神社は、孝霊天皇の御代に鎮座したとされ、社伝によると、当社の別名を椿神社といい、かつて創建された当初、神社の周りは海で津(海の意味)の脇の神社「つわき神社」と呼ばれていたが、時が経るにおいて「つばき神社」に変化したと伝わっている[53]。

出雲崗神社

伊予国延喜式内社出雲崗神社は孝霊天皇の勅命により素盞鳴命・稲田姫命の二柱の神を祀ったのがはじまりとされる[54]。

金立神社

佐賀県佐賀市金立町大字金立にある三代実録記載の式外社金立神社の社伝によると、当社は孝霊天皇72年(BC219年)2月の創建とされ徐福伝説が伝わっている[55][56][57]。

阿蘇神社

肥後国名神大社阿蘇神社由緒によると孝霊天皇9年(BC282年)6月、健磐龍命の子で、後に初代阿蘇国造となる速瓶玉命が勅命により両親を祀ったのに始まると伝えられている[58]。『阿蘇郡誌』によると健磐龍命は神武天皇即位前14年に誕生し神八井耳命の第5子とされている。

冠嶽神社

鹿児島県いちき串木野市冠嶽にある郷社冠嶽神社の社伝によると、冠嶽の名前は孝霊天皇の御代に串木野に上陸した徐福がこの山に登り不老不死の霊薬を求めることができるように封禅の儀式を行って自らの冠を捧げたことに由来するという伝承が残っている[59][60]。

信仰

孝霊天皇を主祭神として祀る神社は鳥取県に多く分布している[23]。

考証

実在性

孝霊天皇を含む綏靖天皇(第2代) - 開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』・『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、宮・陵の所在地が前期古墳分布と一致しないこと等から、創作性が強いとされる。

一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある[61](詳細は「欠史八代」を参照)。治世の長さが不自然であることは春から夏までの半年間と、秋から冬までの半年をそれぞれ1年と数えていたとする春秋二倍暦説で説明できるとする向きもある。「魏志倭人伝」に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」とあることが根拠として挙げられる。

名称

和風諡号である「おおやまとねこひこ-ふとに」のうち、「おおやまとねこひこ」は後世に付加された美称(持統・文武・元明・元正の諡号に類例[61])、末尾の「に」は神名の末尾に付く「に」と同義と見て、孝霊天皇の原像は「ふとに(太瓊 / 賦斗邇)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある[3]。

伊藤公爵家系譜

『伊藤博文伝』の冒頭には、「伊藤公爵家系譜」というものがある。全九ページにわたっていて、その始祖は孝霊天皇ということになっている[62]。

考古学的発見

妻木晩田遺跡

古くから孝霊天皇の伝承が残されている淀江町から大山町に跨る孝霊山から続く晩田山丘陵で、1995年から1998年にかけて行われたゴルフ場開発による工事によって弥生時代の高地性集落遺跡「妻木晩田遺跡」が発見された[63]。発掘調査により面積は156ヘクタールにもおよぶ大規模なもので国内最大級であることがわかった(同時期の集落遺跡である吉野ケ里遺跡は117ヘクタール)。これまで遺跡の10分の1にあたる17.2ヘクタールが調査され、集落関係では竪穴建物395棟、掘立柱建物跡502棟、弥生墳丘墓(四隅突出型墳丘墓含む)24基、環壕等が検出され、東側が居住地区、西側の丘陵先端が首長の墓域といった構成となっていることがわかった[64][65]。高地性集落は倭国大乱との関連も指摘されていて、倭国大乱と孝霊天皇の時代とも重なるため今後の調査が期待される[66]。

青谷上寺地遺跡

1998年(平成10年)に山陰自動車道の建設に伴って発見された複合遺跡「青谷上寺地遺跡」[67]において多量の木製品、骨角製品、人骨など、膨大な遺物が出土した。中でも卜骨は250点であり国内最多の出土数とされる。魏志倭人伝に”骨を灼きて以って卜し、用って吉凶を決す。”とあり青谷上寺地遺跡付近に倭人の国があったことを示す重要な遺物である。また出土した際、イノシシの左右の肩甲骨2枚を1組とし面や向きを合わせ重ね合わせたものが3組並べて配置されていたことがわかっており、こうした例は、青谷上寺地遺跡以外では、韓国慶尚南道の勒島遺跡のみであり因幡地域が古くから大陸との密接な交流があったことが推察される[68]。

青谷上寺地遺跡 の38SD 溝状遺構からは約5300点(110体分)の人骨が出土し、そのうち10体の人骨は切り傷や刺し傷といった殺傷痕があったことが確認されている。その中には腰骨に銅鏃が刺さったものも発見されており、これは国内で初めて銅鏃が武器として使用されたことが証明されたたいへん貴重な資料である。また人骨とともに埋葬された土器の形式から2世紀後半に該当されることがわかっている。2世紀後半は『後漢書』『魏志倭人伝』に書かれている倭国大乱の時期と重なることから、その戦いとの関係性が指摘されている[69][70]。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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