中島徳蔵
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上野国佐位郡今井村(現・群馬県伊勢崎市赤堀今井町)に、中島鯛三郎(のち泰三郎)・かよの子として生まれる[2][4]。地元の今井小学校を優秀な成績で卒業して授業生(代用教員)として採用され、師範学校で講習を受け三級訓導補心得となった[2][7]。その後群馬県立中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に入学し、1885年(明治18年)に卒業した[1][2][7][4][8]。同年4月帝国大学予備門専修科に入り、校長・杉浦重剛の薫陶を受けた[1][9]。9月に退学すると郷里の小学校の訓導として勤務し、1889年(明治22年)には佐位郡那波高等小学校校長に任命された[1][9][7]。スペンサーの教育論で知られた[1][9]。1891年(明治24年)東京帝国大学哲学科専科に入学し、1894年(明治27年)に修了した[1][10]。また1896年(明治29年)まで同校で哲学・倫理2科を専修[1]。
1895年(明治28年)から伝通院の浄土宗高等学院で倫理・教育・ドイツ語の教鞭を執った[10]。1897年(明治30年)5月、井上円了が設立した哲学館(東洋大学の前身)講師となり、西洋倫理学と倫理学を教える[1][10]。1899年(明治32年)からは東京高等工業学校講師も兼務[1][10]。1900年(明治33年)には文部省の要請を受け、修身教科書起草委員に就任する[1][10]。これにより浄土宗高等学院・哲学館の講師を辞職[1][10]。就任してからおよそ半年で解職させられる。委員会では、修身の教科書を『教育勅語』をもととして作成しようとしていたのに対し、委員に就任した徳蔵の私案が、児童に対しては智仁勇の三徳の涵養を中心としたほうが『教育勅語』よりも理解しやすい、というものであったため、これが勅語撤回論と見なされたからであった。
1901年(明治34年)、哲学館講師に復職[1][10]。1902年(明治35年)共立女子職業学校の講師となり修身を担当する[10]。同年12月、徳蔵担当の教育部第一科(教育倫理科)の卒業試験に関して哲学館事件が起きた。これにより哲学館と東京高等学校を退職する[1][11]。翌年、読売新聞に「余が哲学館事件を世に問ふ理由」を投稿し、哲学館事件を世に知らしめる。読売新聞には、1月28日から30日にかけてその全文が掲載され、以後社会問題化し物議を醸す。なお、1月29日付けの読売新聞には、文部省による反論「当事者たる隈本視学官の談」が掲載されている。この隈本視学官とは隈本有尚のことである。ちなみにこの隈本と、文部省の「教科書疑獄事件」に関与していたとされる隈本繁吉視学官、それと普通学務局第一課長・本間則忠らの臨監のもと、事の発端となる試験が行われている。
同年2月、哲学館学生と卒業生により、徳蔵に対する見舞金の募集が始まり、3月に徳蔵に渡される。当初徳蔵はこれを拒否するも、説得され受け入れる。この見舞金は、哲学館へ図書を寄贈することに用いられ、寄贈本は現在の東洋大学附属図書館に現存している。
1905年(明治38年)、哲学館大学講師に復職[1][12][7]。翌1906年(明治39年)には東京高等工業学校講師にも復帰した[12]。また1908年(明治41年)からは跡見高等女学校修身科担当講師も勤める[12]。
1924年(大正13年)6月17日に東洋大学学長事務取扱となり[1][13]、1926年(大正15年)2月26日に正式に東洋大学第6代学長に就任する[14]。1928年(昭和3年)3月30日には東洋大学の大学令にもとづく大学への昇格を実現する[1][14]。これにより東洋大学学長事務取扱となり、1929年(昭和4年)9月9日から1931年(昭和6年)6月30日まで第7代学長を務めた[1][14]。また新校舎や図書館の建設、神道講座の開設など積極的に大学の発展に尽くした[14]。
1935年(昭和10年)5月31日死去[3][4]。法号・大智院捕風徳蔵居士[3]。葬儀は東洋大学最初の大学葬として営まれた[15]。
主な著書
- 加藤弘之との共著『明治女大学』、大日本図書、明治35年(1905年)12月
- 『実践倫理講話』、同文館、明治44年(1911年)10月25日
- 『現世処世指針』、東洋大学出版部、明治45年(1912年)
- 『論語の組織的研究』、中島徳蔵先生追憶記念会、昭和16年(1941年)