中村朝定
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| 時代 | 鎌倉時代 |
|---|---|
| 生誕 | 文治年間 |
| 死没 | 建長2年(1250年)11月15日[1] |
| 改名 | 千歳丸(経若)→義宗→朝定 |
| 別名 | 通称:八幡太郎義宗[2]、中村蔵人、中村左衛門尉 |
| 戒名 | 義宗院殿正行泰辰大居士[1] |
| 墓所 |
神奈川県藤沢市荘厳寺[1] 栃木県真岡市荘厳寺[† 1] |
| 官位 | 蔵人、左衛門尉 |
| 氏族 | 中村氏 (下野国) |
| 父母 |
父:源義経(伝)、母:郷御前(伝) 養父:中村常陸入道念西→常陸冠者為宗 |
| 妻 | 常陸尼(中村常陸入道念西の娘) |
| 子 | 朝綱、時綱(伊達為重養子)[† 2] |
中村朝定(なかむら ともさだ)は、鎌倉時代初期の御家人、中村氏の祖。中村城第4代城主。経若[† 3](幼名)、八幡太郎義宗、中村蔵人、中村左衛門尉。朝定より15代の孫に宇都宮氏の五指に入るほどの闘将と謳われた中村玄角がいる。
文治年中に朝定が中村常陸入道念西(伊達朝宗)の養子となってまもなく奥州合戦が起こり、文治5年(1189年)8月、[† 4]念西の4人の息子が源頼朝に従い奥州合戦に従軍し石那坂の戦いで戦功を得、念西は伊達郡と信夫郡を賜わり伊達の地頭になった。同年冬、朝定は念西が地頭となった伊達に移るにあたり常陸冠者為宗に預けられ、常陸四郎と名乗り石那坂の戦い第一の活躍を見せた為宗や荘厳寺の行勇阿闍梨らの養育を受けた。この荘厳寺坊行勇阿闍梨は念西が荘厳寺を再興した際に鶴岡八幡宮より招聘していた[3]。建久年頃は下野の中村は念西の三男の資綱[† 5]、常陸の伊佐は常陸冠者為宗、伊達は為重(宗村)と息子の義広がそれぞれ統治していた[4]。

建仁年頃に成人となると念西の遺言に従い中村城に入り本姓の中村を相続した。それまで中村の荘を預かっていた資綱は実質鎌倉にいて幕府の職に就いていた。[† 6]。朝定(義宗)が成人し中村城主となると資綱が長らく鎌倉にあったため領地が疲弊していたので、朝定(義宗)は領民に良く、そして養父念西(伊達朝宗)、宗村よりの中村領における治水に励み、下野衣川(現在の鬼怒川)よりの水路を勝瓜口(現在の栃木県真岡市勝瓜近辺)より領内への用水路開拓を自らの治世に尽くした。中村領民は朝定が亡くなった後に中村城近くに朝定を慕い朝定を土人(この地で育ち生きた人という愛慕の意味を込めた)として祀った『中村大明神』を建立した[5]。

承元3年(1209年)、源実朝が常陸冠者為宗に長世保(現在の宮城県松山町)の拝領地の開墾を命じた際に[6]朝定(義宗)を伊佐為家の鎌倉舘預かりとし実質は朝定(義宗)、縫殿助父子を鎌倉の監視下に置いた。鎌倉幕府は中村領を伊勢神宮領小栗郷「小栗御厨」を管理していた小栗氏に地頭を任じ中村領を管理させた。この頃、朝定は義宗と名乗っていたが幕府は義経に通ずる義の通字を良しとせず養父朝宗より1字賜り朝定と改めた。朝定、その子中村縫殿助朝綱、孫の中村太郎頼長は、八幡宮に奉納するほどの弓の遣い手であった。
嘉禄元年(1225年)、北条政子と大江広元が相次いで亡くなった翌、嘉禄2年(1227年)、嫡男の朝綱が藤原頼経の御家人となり[7]、その後の暦仁元年(1238年)、藤原頼経の上洛に際しては、頼経の随兵として名を連ねている[8]。
承元3年以後、朝定は伊達、伊佐氏のもと鎌倉にあって旧領の下野国中村への帰還は叶わなかった。中村氏が旧領を取り戻すのは鎌倉幕府が滅亡した朝定より5代後の中村経長の代まで待つことになる。
源義経の遺児伝承
源千歳丸
中村朝定の源義経遺児伝承概要
青森県弘前市新寺町の圓明寺(円明寺)の縁起には「千歳丸のちの経若丸は義経の子であり、千歳丸を常陸坊海尊に託し、常陸介念西に預け後に養子にした」[9]との伝承や、真岡市教育委員会(編)『真岡市史案内』収録の小林利男「中村城のこと」の文献によると、栃木県真岡市の遍照寺古寺誌や中村八幡宮の記録の中村朝定についての出自についての伝承[5]には朝定は幼名を経若と言い、その出自については源義経の遺児経若であるという。古寺誌によると源義経の遺児経若が伊佐為宗によって養育され成人後、中村蔵人義宗と名乗り、後に改めて中村左衛門尉朝定と名乗った[10]。この遍照寺や中村八幡宮を中心とした地域の寺院等に同様の伝承文献が存在する[11]。
| 文治中、藤原泰衡追悼の軍功により賞与を仝地に賜り、故に奥州伊達の地に移る。これより先、常陸坊海尊なる者藤原秀衡の命を受け源義経の子、経若を懐にして中村に来り、念西に託す。念西、伊達に移るに由り常陸冠者為宗を伝とし中村家を為村に譲り、為宗我が子とし成人の後、中村を続かしむ。後、中村蔵人義宗と言ふ。又左衛門尉朝定と改む。 |
伊達氏史料による朝定
伊達氏側による朝定についての記録・史料については「亀岡八幡宮代参八幡氏由緒」(仙台市博物館所蔵)においてその名を確認できる。伊達氏側の史料によると朝定については念西の嫡子としており、その名は「八幡太郎義宗」と記載されている。藤原姓を本姓とする伊達氏において源氏嫡流を意味する八幡太郎の名を冠し、本姓中村を継がせた嫡子扱いと伊達氏に於いては特別扱いをしていたのが窺いとれる[2]。
- 亀岡八幡宮代参八幡氏由緒[2](仙台博物館所蔵)
| 山陰中納言政朝公之御孫中村常陸入道宗村公之御嫡子初而八幡之家ヲ被為継候而八幡宮御代参被仰付、号八幡太郎義宗公ト、代々八幡之家相続仕候 |
千歳丸伝承考察
『吾妻鏡』の文治3年2月10日条には、義顕(義経)が奥州入りした際に「正室と男子、女子の子供を連れていた」とされているが、衣川の戦いで死亡したのは4歳になる女児のみ記載されていて男子の死については記載されていない。『続群書類従』の「清和源氏系図」には源義経の男子として千歳丸が挙げられている(陸奥国の衣川館において3歳で誅殺されたとの記載もある)。秀衡が、常陸坊海尊に義経の縁者にあたるとされている念西に託すよう命じたとのことで義経一行が奥州入りした文治3年2月から秀衡が亡くなったとされる10月の8ヶ月の間に経若が連れ出されたされていることや衣川の戦いで亡くなったのが女子のみの記録などから、この千歳丸が経若であるとの伝承を裏付けているとの説もある[12]。
源義経の遺児伝承に基づく相関図(略系図)
| 中村季孝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 源為義 | 中村家周 | 女子 | 藤原忠隆 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 源義朝 | 女子 | 中村光隆 | 藤原基成 | 女子 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 源義経 | 中村常陸入道念西 (伊達朝宗) | 藤原秀衡 | 女子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 中村朝定(千歳丸・義宗) | 藤原泰衡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 中村氏 (下野国) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
