中村国長
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天正14年(1586年)、水谷正村が宇都宮国綱の支城であった上三川城に攻め込んできた。宇都宮国綱は芳賀高氏、長山通兄を大将として、中村時長、国長と今泉泰光(上三川城主)等を先鋒に砂田原において水谷正村と対陣した[3]。水谷正村率いる結城晴朝軍は敗退し、中村領の内、寺内、若旅、加倉、粕田、寺分、下大沼、上大沼、柳林、勝瓜、長田、伊勢崎、小橋、大和田、上下西金井、高間木、亀山を宇都宮領とする条件で和睦を申し出た[4]。
宇都宮国綱は中村時長に対し宇都宮城北側の守りの要である中城(戸祭城)をそのまま守らせ[3]、旧中村領は時長の嫡男の市左衛門[2]に引き継がせた。このとき、市左衛門は国綱より偏諱を賜り国長と名乗ったが、程なくして国長は父の時長より先の文禄4年(1595年)に病没した[1]。旧中村領は国長嫡男の吉兵衛が跡を継いでいる。