中村覚之助 (サッカー指導者)
日本サッカーの普及に貢献した人物
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経歴
1878年(明治11年)、和歌山県東牟婁郡浜ノ宮(現:那智勝浦町)で生まれ、神社の氏子を務める家柄でもあった。1899年(明治32年)、和歌山師範学校(現・和歌山大学教育学部)を卒業し、宇久井尋常高等小学校(現・宇久井小学校)で教師となるが、1年で退職した[1]。
1900年(明治33年)、東京高等師範学校(現:筑波大学)に入学。1902年(明治35年)秋、留学から帰国した坪井玄道教授の指導のもと、フットボール部(現:筑波大学蹴球部)の創設に参画した[2]。これが日本で最初のア式フットボール(現在のサッカー)のチームであるとされる[1]。中村は選手としては加わらず、部の運営やルールの指導などにあたった[3]。さらに1903年(明治36年)10月には、坪井が持ち帰ったアメリカ[注 1]の本「アッソシェーション.フットボール」を翻訳し、フットボール部名義で出版した[4]。1904年(明治37年)2月6日には4年生の中村の企画で東京高師は横浜カントリー・アンド・アスレティック・クラブ(YC&AC)と日本で最初のサッカー対外試合を行った[5]。
1904年(明治37年)3月、東京高等師範学校博物学部を卒業[6]、4月には東京府立第一高等女学校に着任したが10月には休職[7]。翌1905年(明治38年)には清国政府からの招聘を受け、山東省済南師範学校へ派遣された[1][6]。1906年(明治39年)、同地で腎臓炎を患い[8]、6月28日には夏季休暇を利用して病気療養のために帰国し、神戸市まで到着したものの、7月3日夜に同地で客死した[8][9]。
2002年(平成14年)、和歌山文化協会第53回先覚文化功労者として顕彰。出生地にあたる那智勝浦町の那智駅前に顕彰碑が建てられた[10]。