中村雄飛
From Wikipedia, the free encyclopedia
長崎に生まれ、若年期に航海技術者の竹内貞基に学び、航海・測量技術を修得した[1]。維新期には海軍に入り、戊辰戦争では官軍として蝦夷地・奥羽方面の旧幕府勢力討伐に従軍した。朝陽丸に乗船し箱館湾海戦で功があった[2]。
明治5年(1872年)に大尉に任ぜられ[3]、明治6年(1873年)1月には、艦長を務める第一丁卯により琉球全島の測量を命じられた[4]。同年9月には水路寮教授課長に就任し[5]、青木住真・五藤国幹らとともに水路寮の中核を担った。明治8年(1875年)に正七位、明治12年(1879年)1月には少佐に進み従六位に叙された[3]。
以後、水路部庶務課長・整什課長を歴任し、明治18年(1885年)には灯台位置選定委員を命じられる[3]。明治19年(1886年)1月29日には水路部図誌長となり、東艦副長を経て、明治21年(1888年)には旧東艦残務取扱として横須賀鎮守府測量庫主管に転じた[3]。明治24年(1891年)2月16日には海軍大学校教官に補され、明治28年(1895年)12月に退役した[3]。
測量技術者としての足跡としては、明治11年(1878年)に熊本で測量した県庁の経緯度柱が、旧熊本洋学校校舎脇に現存する[6]。また、中牟田倉之助が後年、朝陽丸の副将であった福島敬典と協力して長崎市の大楠神社の境内に殉難碑を建立した際、箱館湾海戦の戦没者慰霊のため、有栖川宮熾仁親王が篆額を、殉難碑の碑文を中村自身が書いている[7]。
中村は平家音楽(平曲)にも深く通じ、自らの手で『平家物語』本文一式を書写した[2]。また高齢となり官職を辞するにあたっては、所蔵する平曲の楽本(譜本)をすべて手書きで書き残したという。
明治38年(1905年)には、長崎の自宅を稽古場(伝習所)として開放し、館山漸之進を招聘して平曲を教授させ、多くの門人を育成した[2]。
明治41年(1908年)4月3日、郷里の長崎市の(東京胃腸病院とも)にて死去した[2]。