青木住真
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周防国佐波郡、のちの山口県佐波郡佐波村(現防府市)に安政2年(または弘化3年(1846年))に生まれる。長州藩の船舶・水軍を管理運用し海上警備や輸送を担った船手組の出身である[1]。父は長州藩士・青木住衛(三郎兵衛)[2]。
維新後は海軍に入り、明治3年(1870年)5月の日英共同測量の一員となった[3]。水路事業の拡充が進む中、明治5年(1872年)に水路局が廃止され水路寮が置かれると、創設期の中核要員として青木(ほか中村雄飛・五藤国幹ら)が挙げられ、長州藩から推薦され長崎で研修を受けた伝習生であり、北海道測量にも参加した有能の士である青木は明治6年9月から測量課長を務めた[4][5]。以後、水路測量に従事し、明治6年(1873年)9月には春日艦、明治7年(1874年)には日進を率いて台湾近海の測量にあたった[3]。
蝦夷調査に関しては、五島らとともに柳楢悦艦長指揮の軍艦春日に丸乗艦して参加した一員とされる[6]。
一方で実務海軍としての行動も多く、明治5年(1872年)に大尉へ進み[7]、明治7年(1874年)の佐賀の乱では海軍大尉として大坂丸に乗り込み品川湊を出発した[8]。明治8年(1875年)には正七位に叙せられ[9]、明治10年(1877年)の西南戦争では海軍少佐として軍艦第二丁卯艦を指揮し、2月18日に品川港を出発して征討に従軍した[10][11]。叙勲は明治11年(1878年)に勲四等、明治19年(1886年)に勲三等とされる[12][13]。
のち海軍大佐となり退役した[14]。呉鎮守府開庁後の明治23年(1890年)には、海軍軍人子弟のため清水通りに設立された淡水学校の初代校長となり、明治23年から25年まで務めた[15]。