中目覚
日本の地理学者、言語学者 (1874-1959)
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経歴
1874年、仙台藩一家 十七家の一つ中目氏の一族として宮城県仙台市に生まれる。9歳で宮城師範学校付属小学校に入学し、14歳で退学、宮城県尋常中学校に入学する。翌年同校を退学し、第二高等中学校に入学する。23歳で同校を卒業し、帝国大学文科大学独逸文学科に入学する[4]。
1899年(明治32年)、東京帝国大学を首席卒業。恩賜の銀時計を授与。第四高等学校(後の金沢大学)でドイツ語教授をしていたが、1903年(明治36年)、30歳の時に創立された広島高等師範学校(後の広島大学)でドイツ語と地理学を三ヶ月ほど教えたのち、3年間オーストリア・ハンガリーへの留学を文部省から命じられる。1904年(明治37年)にウィーン到着。ウィーン大学でペンクとその後継者のブリュックネルに師事した[4]。
第四紀の氷河地形や気候学のほか地誌学を修得するとともに、長期の調査旅行にも出かけた。1904年に東アルプスの氷河地形巡検とスイスを巡る調査旅行、翌年にはライン川に沿ってブリュッセルに至る旅行などをした。それらの日記は『アルプス山とライン河』として1920年にまとめられた[4]。
1907年に広島高等師範学校に地理教育の課程を創設。また同年、英国王立地理学会員エドワード・ガントレットとともに、初めて秋芳洞の学術調査を行った。その後、旧制松山高等学校、京都帝国大学などで地理学を講じた。また、戦時中には華北日本語教育研究所所長を務め、大陸での日本語普及を行った。その後は、大阪外国語学校(後の大阪外国語大学)の初代学校長を務めた。存命中は、北極と南極以外のすべての大陸を踏破し地理学調査を行っており、また調査旅行先のアフリカでエチオピア皇帝ハイレ・セラシェ1世に拝謁し親交を結ぶなど、時代を代表する旅行家として知られていた。
研究内容・業績
家族・親族
主な著書
- 『樺太の土人』
- 『改訂新編地理通論』三省堂書店 1914
- 『改訂新編日本地理教科書』三省堂書店 1914
- 『東亜旅行談』広島高等師範学校地理歴史学会 1916
- 『バルカン旅行談』1916
- 『オロッコ文典』三省堂 1917
- 『樺太の話』三省堂 1917
- 『地理の教科書』編 三省堂 1917
- 『ニクブン文典』三省堂 1917
- 『バルカン旅行談附録』三省堂 1917
- 『土人教化論』岩波書店 1918
- 『小樽の古代文字』地理歴史学会 1919
- 『獨逸書翰』編 三島開文堂 1924
- 『ニクブン文典 独訳 亜細亜研究』大阪東洋学会 1927
- 『アジアに於ける重なる言語』松本重彦共著 天理教道友社 1927
- 『オロツコ文典 独訳 亜細亜研究 大阪東洋学会 1928
- 『外来新語辞典』博多成象堂 1932
- 『新満洲の旅』河本芳治郎 (印刷) 1932
- 『呂宋紀行』編 大阪地理学会 1934
- 『支倉六右衛門』白嶺会 1957