楠本長三郎
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| 楠本 長三郎 (くすもと ちょうざぶろう) | |
|---|---|
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楠本長三郎 | |
| 生誕 |
1871年3月10日(明治4年1月20日) |
| 死没 |
1946年12月6日(75歳没) |
| 研究分野 | 内科学 |
| 研究機関 | 大阪帝国大学 |
| 出身校 | 東京帝国大学 |
| プロジェクト:人物伝 | |
楠本 長三郎(くすもと ちょうざぶろう、1871年3月10日(明治4年1月20日) - 1946年(昭和21年)12月6日)は、日本の内科学者。大阪医科大学を昇格させ大阪帝国大学を創設した。その後、大阪帝国大学第二代総長となり、微生物病研究所、産業科学研究所等を設置し、大阪帝国大学拡大に貢献した。位階は正三位。勲等は勲一等。
医師としての研究と活躍
大阪帝国大学への貢献

大阪帝国大学の創立
大阪医科大学学長就任以来、懸案の大阪帝国大学の創立に日夜努力した。1930年(昭和5年)4月から半年間欧米各国へ出張して大学制度の実情を視察・研究した。帰国後、学内教官団、並びに大阪府、大阪市、財界、言論会等の官民一致の協力を得て、大阪帝大の実現に向けて奔走した。1931年(昭和6年)5月1日浜口雄幸総理、井上準之助蔵相らの理解を得て大阪帝国大学へと昇格した。大阪帝大創設費として大阪府からの寄付金は総額185万円(現在の価値で30億円[2])にものぼり、うち95万円は長三郎の経理運営の刷新から得た大阪医科大学病院の収入残余であった[1]。
初代総長人事
初代総長の人事については、地元の大阪側では国立総合大学設立の推進運動の中心で合った長三郎の就任を強く要望したが、文部省側は少し前まで文部次官だった粟屋謙を主張して譲らなかった。間にたった文相田中隆三は理化学研究所から推薦のあった長岡半太郎に承諾を頼んだ。半太郎はしばらくの間躊躇していたが、後任を長三郎とすること、なるべく早く退任することを条件として承諾した[1]。実際に半太郎は当初より就任期間を短くして退任した。
第二代総長在任中
1934年(昭和9年)6月に大阪帝国大学総長就任後、財界から寄付を集め、同年9月に微生物研究所を設立、1935年(昭和10年)8月には大阪癌治療研究会を組成した。癌治療研究会ではチェコスロバキアからラジウム3gを購入しラジウムによる癌治療の端緒が開かれることになり、新聞でも大きく報じられた[3]。その後も1937年(昭和12年)1月に日本学術振興会附属災害科学研究所を設置、1939年(昭和14年)11月に産業科学研究所/産業科学研究協会設立[4]など大学の規模拡大に大きく貢献した。1942年(昭和17年)9月には現在の緒方洪庵の適塾の土地・建物が、緒方家と日本生命保険株式会社社長成瀬達との協議の結果、楠本長三郎へ寄附された。
楠本賞
楠本長三郎退官を機に、1943年(昭和18年)2月「楠本前総長記念奨学会」が組織され、1945年(昭和20年)3月に財界・個人から募集した奨学資金で「楠本博士記念奨学会」が発足された。同奨学会では、長三郎の「在職中の意志を継承し、人文及び自然科学の発達を促進助成する」趣旨のもと、同年12月、「大阪帝国大学各部の優秀なる卒業生に対する表彰などの事業を行う」などの既定を制定した[1]。大阪大学では現在も毎年、楠本奨学会から各学部・学科の優秀な卒業生(主に各学部の首席卒業生)に「楠本賞」が贈られている。