大学卒業後、戦後、大阪 ミナミで最大の勢力を持っていた愚連隊「南道会」に所属した。南道会会長・藤村唯夫が三代目山口組組長・田岡一雄の舎弟となったことから山口組傘下に入り、1963年に他の南道会幹部数人と共に三代目山口組直参に昇格した。
推挙されて三代目山口組直参となった中西はほどなく、1968年に若頭となった梶原清晴のもとで、若頭補佐の要職に就いた。以降、山本健一若頭のもとでも若頭補佐を引き続き務め、1980年の大阪戦争では、中西組が二代目松田組組長を攻撃し、武闘派として名を馳せた。
田岡三代目・山本若頭が相次いで亡くなり、跡目争いで一和会が袂を分かつが、中西は竹中正久を四代目に推して山口組に残り、後の竹中四代目体制下では、舎弟頭として組を支えた。
1984年に竹中四代目らとともにNHKのインタビューに答えており、その模様が8月27日にNHK特集『山口組ー知られざる組織の内幕ー』として放送された。
1985年、山一抗争で竹中四代目が殺害されると、組長代行に就任して、山一抗争下での山口組の最高責任者として舵取りをした。
稲川会稲川裕紘本部長に付き添われる形で、山口組本家応接間に現われた山本広を、竹中武若頭補佐、中西一男組長代行、渡辺芳則若頭、岸本才三本部長の4人が迎えた[2]。山本広は竹中正久四代目と田岡三代目の位牌に手を合わせ、頭を垂れた[3]。稲川裕絋に促された山本広は山口組の4人に対し、「いろいろ御迷惑をかけ、まことに申し訳ありませんでした」と詫び、深々と頭を下げた[2]。
山一抗争が終結すると、五代目に推す声もあったが、若頭・渡辺芳則(当時)と直接意見調整し、最高顧問に就任(山口組五代目跡目問題)。
2003年9月1日[1]、肝不全により死去した[4]。80歳没。
ヤクザにして大卒、刺青無し、逮捕歴さえない稀有な経歴の持ち主として、マスコミで取り上げられた。