中間統胤
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生涯
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の九州平定で豊前六郡が黒田氏の所領となると、その傘下となって引き続き一ツ戸城を安堵された。城井鎮房の反乱の際にはこれに組みするものの、後に黒田氏に忠誠を誓って縁戚であった山田大膳輝家の籠る豊前山田城を謀略によって落城させ、黒田孝高から重用された。文禄・慶長の役では黒田家の一員として朝鮮にも渡海している。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際は黒田如水に従い、旧主大友義統を撃破している。この時に子・忠胤、重友が初陣を飾り、敵将を討ち取って、兄弟は羽織と小袖を恩賞として与えられた。黒田氏が関ヶ原の戦功により筑前国52万石を与えられると、故郷を離れ、黒田長政に従った。統胤は筑前松尾城主となり、元和の一国一城令で廃城になるまで国境を守った。元和9年(1623年)の段階で、その知行は2,500石、息子の六郎右衛門忠胤が400石を得ていた[2]。 黒田長政はその功に報いて、統胤に黒田の名字を与え、黒田統胤と名乗らせた[注釈 1]。
後に隠居して家督を忠胤に譲り、任可と名乗った。
寛永2年(1625年)、死去。家督は長男・忠胤が継ぎ、次男・重友は別家を起こした。
忠胤は栗山利安の婿であり、栗山利章の起こした黒田騒動に連座する形となり、蟄居するも清末藩主・毛利元知の招きに応じた先の長門国で早逝して断絶。重友の系統は福岡藩士として続き、安政5年(1858年)に重友の子孫である統範は断絶していた統胤の家を再興している。
家系
中間房俊 ┣━━━┓ 統胤 小左衛門 ┣━┓ 忠胤 重友 ┃ 経家 ┃ 重棟 ┃ 重規 ┃ 重良 ┃ 重倚 ┃ 良重 ┃ 重友 ┃ 統範